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あきら「茶柱句会 第三部 第48回茶柱ツイッタ−句会」

─俳句なう─
「第48回茶柱ツイッタ−句会参加作一覧」
(着信順 投句のまま)
2013年8月8日〜8月22日締切り
1ツイ−ト3句以内×2ツイ−ト以内
兼題 <子規忌><葡萄><良夜>
あるいは自由題 当季(仲秋〜晩秋)



愉快こそ生きゐる証獺祭忌

而して発酵させし葡萄酌む

人知れず光ケーブル良夜かな

花野には届かぬ言葉隠里

三界の孤舟の標破芭蕉

床もみぢへ怯みし一歩底光
(以上六句 大阪市 あきら)


朝顔やおはようございますと子ら

去来して町を出てゆく残暑かな

古壷の新酒見つめてゐるばかり

秋雨や会うて別れてまた会うて

庭にでて猫の添ひくる虫の声
(以上五句 寝屋川市 いさむ)


葡萄盛る翡翠の玉の房重ね

良宵や庭の草花瓶に挿し

パオの中バタ−を作る良夜かな
(以上三句 加古郡 はつを)


人混みにありてもしづか良夜かな

わが旅の足を奪ひし野分かな

雨台風去りて橋脚残しけり

爽やかに泥を残して去りにけり

野分去り慌てゝ捜す脚立かな

月代や言兼ねしこと思ひ出し
(以上六句 横浜市 兎巣)



字句補足説明
順番に
獺祭忌(だつさいき) 葡萄 良夜 と歳時記上は仲秋の季語
花野 十日の菊は歳時記上では秋の季語
破芭蕉(やればせう)は晩秋の季語
獺祭忌は正岡子規(1867〜1902)の忌日(9月19日)子規忌の異称
子規の雅号獺斎(だつさい)に因む 糸瓜忌(へちまき)ともいう
なぜ獺(かわうそ)なのか
獺は獲物を獲ると岩の上に並べる習性がある
子規は獲物ならぬ古今東西の夥しい文献を獺のように並べて研究したことから
自他ともに獺と称すようになったという
詩人で文芸評論家の大岡信(1931〜)さんによれば
「子規は死ぬ前日まで口述でも仕事をし続けた(病牀六尺)」
<悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった>
さらに彼の文章に頻出する語は「愉快でたまらぬ」というものであったという
「今日の仕事が出来ることが、彼にとって今日の命の証しであり、
それがそのまま、大岡の閑暇と愉快の源泉であった」とは
友人で詩人の谷川俊太郎(1931〜)さんの弁
(2002年「風穴をあける」(草思社))
<良夜>は旧暦8月15日の十五夜の夜のことをいう 今年は9月19日だった
つまり子規忌の夜でもある
<糸瓜咲きて痰のつまりし佛かな>というのが子規の辞世の句
糸瓜はへちまのこと
この句について俳人の飯田龍太(1920〜2007)は
<正体不明のスケ−ル>として
<死の直前、あと数刻という時の句とは思えない。
感服するのは、最期まで平常心を保っているところ。
死の側から、こちらを眺め、ユ−モアを伴った俳諧の捉え方を示す
子規がいます。そして自由闊達な筆跡、
それらを含め、子規の俳句の姿勢があくまでも人生の途上であるという
姿勢を崩していないということ。
最終的な完成に上り詰めたというのではないのです。これは見事な心映えです。
そこに怪物たる、正体不明である所以があります。
そいう形式に俳句を導いたのは、そもそも正岡子規だった。
つまり、近代俳句、現代俳句の根本は子規が定めた。
そう思うと、子規に対して圧迫されるような思いになります
私にとって捉えどころのない怪物といった印象>
(2006.7山梨県立文学館インタビュ−)
(飯田龍太の時代・現代詩手帖特集版所収・思潮社)
1902(明治35)年9月10日頃から容態が悪化 
亡くなる前日つまり9月18日に
辞世の句が三句詠まれていた 他の二句は
<痰一斗糸瓜の水も間に合はず>
<をととひの糸瓜の水も取られざる>
いずれも病床から見える庭の糸瓜の棚だけが写生の対象だった
遂には 咳や痰を治す薬となるその糸瓜の水さえ効果がなくなった
脊椎カリエスの宿痾と戦った凄さまじい執念だ
この子規の後を受けて<客観写生・花鳥諷詠>を標榜して発展させたのが
高濱虚子(1874〜1959) 
現主宰・稲畑汀子(1931〜)さんは虚子の孫にあたる
ホトトギスには<時鳥>をはじめいろんな漢字表記があてられていて
<子規>もその一つ つまり自らの俳号の原点の「ほととぎす」を雑誌名とした
子規がほととぎすに拘った理由は次の一句に表れている
<卯の花の散るまで鳴くか子規(ほととぎす)>
ほととぎすは血を吐くまで鳴くと伝えられていた時代
子規は自らの姿をほととぎすに重ねたというのが定説
歳時記によれば夏の季語に分類される
初夏の頃南方から渡ってくる渡り鳥で鳴き声に特徴がある
季語と歳時記の会(季語歳)の50音検索<ほ>をクリックすると
詳しい説明があるので参照されることをお奨めする

1896(明治29)年 子規は評論「明治29年の俳句界」の中で
碧梧桐の<赤い椿白い椿と落ちにけり>という句を
<句意明瞭な句の見本>と高く評価したため一躍有名になった
1897(明治30)年 雑誌「ほととぎす」松山で創刊
子規の友人で俳人でもある柳原極堂(きょくどう)(1867〜1957)が
創刊及び実務
創刊時の雑誌「ほととぎす」は高濱虚子・河東碧梧桐・内藤鳴雪らのの共選方式
1898(明治31)年 虚子が継承 東京へ事務所移転
1901(明治34)年 雑誌名を「ホトヽギス」と改称
1902(明治35)年 子規没
1906(明治39)年 虚子はかねてよりの小説に傾倒 碧梧桐は新傾向色強める
1911(明治44)年 雑誌名を「ホトトギス」と改称 碧梧桐編集を離る
1912(明治45)年 虚子選題詠欄復活
1913(大正2)年  虚子俳壇復帰<春風や闘志みなぎる丘の上>に虚子の決意
1914(大正3)年 東京駅完成
1923(大正12)年 関東大震災(9月1日)震災後 事務所を旧丸ビルへ移転
1947(昭和22)年 虚子の長男・高濱年尾(1900〜1979)代表 
合資会社ホトトギス社とし現在に至る(現在は三菱ビル) 
最大にして最古の俳句結社であるとともに
稲畑汀子さんは日本伝統俳句協会会長も勤め 俳句界に一大山脈を形成
高濱虚子は子規の死に際し<子規逝くや十七日の月明(げつめい)に>と詠んだ
これについては当時の旧暦と新暦に関する補足説明が若干必要
子規が亡くなった1902(明治35)年9月19日深夜は明治の改暦で新暦の日付 
旧暦に換算すると1902年8月17日だから虚子の詠んだ通り<十七日の月明>は
8月17日の深夜となる つまり虚子は旧暦の日付で詠んだもので符合している
因みに今年の9月19日は旧暦の8月15日に当たった
この時期 徳富蘆花(1868〜1927)が国民新聞に
連載小説「不如帰(ほととぎす)」を
1898(明治31)年〜1899(明治32)年にかけて発表 
のち刊行されベストセラ−になっている 
僕はこのホトトギスの共時性は<明治という時代の血を吐くような雄叫び>と
無縁ではないと睨んでいる
蘆花はNHK大河ドラマ「八重の桜」にも登場する同志社英学校の卒業生
1911(明治44)年 子規門の双璧・碧梧桐は同級生だった虚子と袂を分かつ
同年創刊された「層雲」主宰・荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)(1884〜1976)
の呼びかけに呼応 1915(大正4)年まで新傾向俳句の活動を共にするも
考え方の対立から「層雲」を離れ 同年俳誌「海紅」を主宰
1933(昭和8)年還暦を機に俳壇を引退(一説では虚子に対する異議申し立て)
子規の両人評<虚子は熱き事火の如し 碧梧桐は冷ややかなる事氷の如し>
子規の句<若鮎の二手になりて上りけり>が暗示的

以下は「阿蘇」主宰・岩岡中正(1948〜)さんの
「虚子・子規・近代」と題する講演の抜粋 
子規の「近代性(モダニティ)」について僕が共感した部分の要約
1.子規は「知る・書く・生きる」を実践したルネサンス人といえる
2.子規の思想の中核は「自由」・「平等」に加えて「自恃(じじ)」である
これこそ近代の自由主義・個人主義・民主主義の中核といえる
殊に「自恃」は自立ないし独立といってよいという指摘は大切
3.何故俳句を作るかというと 究極のところ今、作ることが生の喜びであるから
とくに他人が評価しなくてもいいのだ
私が今 感動したこと、私が今 表現すること、
すなわち それが生きることなのだ
長い説明になったが子規に対するオマ−ジュ<子規忌>故お許し願いたい
なお 子規は2002(平成14)年に日本野球殿堂博物館(以下野球殿堂)入り
その経緯や<子規と野球のエピソ−ドについて>は本号巻末に別枠で掲載
興味のある方はご覧あれ

<而(しかう)して>は然して(しかして)の漢語的表現
<花野>秋の七草や吾亦紅・釣舟草などが咲き乱れている秋の野原のことをいう
昨今では 人知れず光を受けることのない<光ケーブル>が張り巡らされ
横町も茶柱句会もご覧の皆様方もその恩恵を受けている
<三界>は三千大千世界の略 仏教では全世界のこと
<孤舟>は作家・渡辺淳一(1933〜)さんの近作「孤舟」(集英社)から得た
直訳すれば孤独な舟となろうか 孤独な人を象徴している
広告のリ−ドコピ−に<定年後に待っている妻からの仕打ち>とある
<破芭蕉>は晩秋の季語 大きな芭蕉の葉が破れてうら寂しい様子
そんなモノを標(しるべ)にする孤舟は<あはれ>というほかない
渡辺淳一さんはますます盛ん 最近 作「愛ふたたび」(幻冬舎)では
性的不能となった男性の戸惑いを描く
エリエ−ルスクエア札幌「渡辺淳一文学館」は
同館説明で<真白な雪の中に白鳥が片脚を上げて立っているようなイメ−ジ>
(建築家・安藤忠雄(1941〜)さんの設計で
1998(平成10)年竣工)大王製紙のメセナ事業の一環
<床もみぢ>は京都・岩倉の実相院
春は若葉が映り<床緑>と呼ばれる
いかに手入れ行き届いているか<底光>が丹精の証し
昔から板の床の手入れには米の糠袋が用いられた(ワックスではこうはいかない)
きっとここでは今も糠袋が活躍しているに相違ない
実相院は天台宗では数少ない寺門派の門跡寺院 ご本尊は不動明王とか
いさむさんの句
順番に朝顔 残暑 新酒 秋雨 虫の声と秋の季語
朝顔・残暑は初秋
新酒は晩秋 
秋雨・虫の声は秋一般の季語
日常の<よしなしごと>を衒いなく詠まれた自然体の句
<よしなしごと>を漢字で表記すると<由し無し事>
国語辞典風にいうと つまらない・たわいもないこと というとにべもないが
吉田兼好(1283〜1352)徒然草 序<心にうつりゆくよしなしごとを、
そこはかとなく書きつくれば>を出典として考えると兼好法師然とみえてくる

はつをさんの句
順番に葡萄 良宵(りやうせう) 良夜が秋の季語
秋の宝石のような句を並べられた
一句目の葡萄は翡翠(ひすい)の玉の房から<マスカット>を
すぐにイメ−ジさせる
葡萄の原産地は地中海や中近東とされる シルクロ−ド経由で日本に到来
良宵は良夜の傍題の季語ながら
なにやら二胡の音が聴こえてきそうな旅愁がある
三句目の<パオ>は遊牧民の移動住居のことだが 
もっと普遍的なイエをイメ−ジしてもよかろう 
バタ−を作ると良夜の取り合わせが斬新
この三句で西域から日本につながる
ユ−ラシア大陸の広くて高い秋天を感じさせる

兎巣さんの句
順番に良夜 野分(のわき) 台風 爽やか 月代(つきしろ)と秋の季語
4句目に兎巣さんのシニカルな目が光る 兎巣さんの面目躍如たるところ
普通は<爽やか>と<泥>とは相反する言葉
泥はたんに泥が残るだけでなく 除去するための掃除という仕事を残す
だがこれらのことを全て言い尽くすことは俳句では無理 そこで省略が必要
なかなか爽やかとは云い難い
泥を残した張本人(台風)が過ぎ去った朝は憎いほど清々しく爽やか
台風を省略して<爽やか>と秋の季語が入って 爽やかな句
<月代>は<月白>とも表記する(月代の傍題の季語)
月が東に昇るのを前に 空がだんだん明るく白んでゆく様子をいう
<季語歳>に詳しい解説と例句が掲載されているのでご鑑賞あれ


<同人欄>

「播州葡萄園」あきら(代表同人)vol.36

この惑星(ほし)の公転自転今朝の露

生きてゐるつもりの者へ流星群

秋深き嘗て煉瓦の醸造場

皮膚感に添水の静寂独り坐す

猿(ましら)棲む柞紅葉の森の精

打ち上がれば爽やかなりしイプシロン

字句補足説明
表題の「播州葡萄園」は今はない
「播州葡萄園・醸造場遺跡」が兵庫県稲美町教育委員会によって
設置されているばかり 
同人のはつをさんの地元なので以前数人の俳句仲間と共に案内してもらった
順番に露 流星 秋深き 添水(そふづ) 柞紅葉(ははそもみぢ)
爽やかが秋の季語
地球は太陽の周囲を楕円軌道を描いて1年で一周している
同時に一日の単位で自転している惑星 止まることを知らない
凄ざましい移動体 今朝の露との取り合わせの句
流星群が地球の軌道と一致すると隕石となって落下する
これが我々の置かれている状況
播州葡萄園・醸造場は1881(明治13)年 国営のワイナリ−として設置された
数年後には松方正義や西郷従道ら明治の元勲らも訪問している
今は煉瓦の遺構を偲ぶばかりだが── 
添水は別名猪脅し いまでは日本庭園に時折コンと響くオブジェ
柞紅葉は 柞(ははそ)ブナ科ナラ属の落葉喬木の総称
コナラ クヌギ オオナラなどの雑木林を形成している
落葉広葉樹の林は光をうまく取り入れ一つの生命体のように
生物が共生して生きている 我々ももとはこの林の出身
天台本覚思想の「草木国土悉皆成仏」の実物見本のような植生
かつて「照葉樹林文化論」の文化人類学者の中尾佐助(1916〜1933)の流れが
その弟子佐々木高明(1929〜2013)から
最近引退を表明した宮崎駿(1941〜)さん
まで繋がっていたことを最近知った
紆余曲折あって9月14日イプシロンの打ち上げが成功(よって急遽追加)
パソコン2台で打ち上げるというコンパクトなコンセプトも<爽やか>なら
搭載された衛星も軌道に投入されて<爽やか>この上ない 
<やるじゃんJAXA>
日本の固体燃料ロケットの歴代の名称
K(カッパ)・L(ラムダ)・M(ミュ−)そして
今回のE(イプシロン)とギリシャ語の記号が並ぶ


「新酒」はつを(同人)vol.33

秋雨や新酒目覚める酒蔵通り

醸されて秋映えわたる新酒かな

灘五郷の蔵より来たる新酒かな

秋映えの升の新酒をまず君に

秋時雨白い雲おく山の裾

字句補足説明
順番に表題の新酒 秋雨 秋映え 秋時雨 と秋の季語
灘五郷の酒蔵とそこで生まれる新酒の悦びを詠まれた
五句目<秋時雨>として秋の季語 時雨だけだと冬の季語
下五の<山の裾>の通り六甲連山の東端の麓
山と海との間の東西に細長い地域に灘五郷はある


<講評 あきら(茶柱句会主宰)>
本号は子規忌に因み 子規についてのエピソ−ドを断片的に書きつらねた
読みづらいことこの上ないがご容赦を──
巻末にはおまけに<子規と野球のエピソ−ド>まで挿入
茶柱句会はホトトギスのように子規の嫡流ではないが
<子規の俳句の近代性>の精神を最もよく継承しているという自負がある
就中(なかんづく)「自恃の心」を大事にし
「俳句を自得」することを伝えてきた
参加者4名(293名)参加句数20句(719句)( )内は累計
はつをさんはますます<若さを重ね>た俳句が冴えてこられた
年を重ねるのではなく 若さを重ねるという発想が大事
これは俳句に限らず人生においてもいえること
七十歳は既に超えておられるが その俳句は瑞々しい
俳句のように短い言葉で深い意味を表現するには 
旧かな・文語表記が欠かせない
これは自得するしかない
兎巣さんはその途上におられるが いま継続されていることは必ず実る
重ねて俳人・飯田龍太の箴言
<俳句は自得の文芸><親しんで狎れず> 心したい

─俳句なう─
第49回茶柱ツイッタ−句会」のお知らせ
10月8日〜10月22日締切り  11月8日掲載予定
一人六句まで(1ツイ−ト3句以内×2ツイ−トまで)
兼題 <十三夜(じふさんや)><紅葉(もみぢ)>
あるいは自由題(当季 晩秋) 
季語についてはインタ−ネット季語と歳時記の会(季語歳)で確認して下さい
俳句が最も得意とする季節到来 逃さないで──


<子規忌特集>
<子規と野球についてのエピソ−ド>(インタ−ネット上のwikipedia+Yahoo!知恵袋+野球殿堂等の文献参照)
設問 ベ−スボ−ル(baseball)を和訳したのは誰か?
結論 ベ−スボ−ルを「野球」と和訳したのは
第一高等学校の中馬庚(ちゅうまかのえ)(1870〜1932)で
子規(1867〜1902)ではない 
しかし子規は「野球」という熟語を初めて用いたり多くの野球用語を翻案した
以下にベ−スボ−ルの伝来からの流れを時系列で整理した
1871(明治4)年 米国からベ−スボ−ル伝来
米人ホ−レス・ウイルソンが当時の東京開成学校予科
(その後第一高等学校→東京大学)で教えたのが始まり
その後「打球おにごっこ」として全国に広がる
日本国内の野球の創世記の歴史は
その後の大学野球の創世記の歴史と重なっている
ホ−レス・ウイルソンはその功績から2003(平成15)年野球殿堂入り
(新世紀表彰)
1883(明治16)年 子規上京 この時既に脊椎カリエス発症
1884(明治17)年 東京大学予備門時代にベ−スボ−ルを知る
1889(明治22)年 子規は捕手だったが喀血して退部 
郷里の松山中学の生徒にバットとボ−ルを持ち帰りベ−スボ−ルを教えた
この時 野球を教わった中に河東碧梧桐がいて後に俳句を学ぶことになる
打者・走者・四球・直球などいまも用いられる野球用語は子規の翻案による
1890(明治23)年 子規は随筆「筆まかせ」などの筆名(雅号)に
「野球」を使用
しかし これは幼名「升(のぼる)」を捩ったもので「のぼ─る」から
「野球」としたもの
1894(明治27)年 中馬庚がベースボ−ルについて
「ball in the field」を「野球」とすると同僚の投手青田鉱男に伝えた
1895(明治28)年 新聞「日本」に連載した子規の随筆「松籟玉液」の中で
<ベ−スボ−ルいまだかって訳語あらず>と述べている
1897(明治30)年 中馬庚はベ−スボ−ルの研究書(解説書)
「野球」を著作
これは単行本で刊行された本邦最初の専門書で わが国野球界の歴史的文献
(野球殿堂・顕彰文による)
子規が野球殿堂入りしたのは2002(平成17)年(新世紀特別表彰)
中馬庚は子規に先がけて1970(昭和45)年に野球殿堂入りしている
改めてベ−スボ−ルを「野球」と和訳したのは誰か?
という答えは上述した通り<中馬庚>だが
設問を変えて「野球」という言葉や
「野球用語」を発明したのは誰か?とすれば
上述した通り<ベ−スボ−ルの黎明期に青雲の志を持った「野球小僧」たち>
あるいは<子規をはじめとする中馬庚ら一高(野球部)の諸君とその時代>
とすべきではなかろうか
以上


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