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第14回 日本文芸の近代化
-正岡子規へのオマ−ジュ(その1)-

私は 正岡子規による
俳句 短歌 川柳 詩歌の近代化は
文芸復興であったと考える

明治維新の近代化は 理工系の技術や法律
社会の制度を丸ごと輸入して
第一期の礎が築かれた

子規が取り組んだ近代化はそれらと異なり
既に江戸時代に確立されていた文芸の近代化(ルネサンス)
という困難な事業だった
 
この困難に宿痾をかかえながら挑んだ一大改革
文芸復興(ルネサンス)だった

まず俳句 俳諧を徹底的に蒐集して分析
俳諧の発句を独立させた座の文芸から
切り離して個人の作品として「俳句」と命名

「俳諧から滑稽の要素を取り除いて
客観写生 つまりリアリズムを提唱した」と
俳人 長谷川櫂さんは子規研究の一端を述べている
この写生の精神を継承 大きく開花さ
せたのが
「ホトトギス」を主宰した高浜虚子 因みに
「子規」は「時鳥(ほととぎす)」の漢語的表現

夏目漱石が小説「我輩は猫である」を
「ホトトギス」に連載してデビュ−したのも奇しき縁

さて こんな改革者の子規は
生涯に約24,000句詠んだといわれます
子規の故郷 松山市の素晴らしいところは
松山市立子規博物館を運営し市のHPで
子規の句を常時検索できるようにしていること
春 5,972句  夏 6,239句  秋 7,348句
冬 4,462句  新年868句  雑 202句
総数 17,329句を年代別に掲載
アドレスは
http://www.city.matsuyama.ehime.jp/sikihaku/

そして短歌

1893年(明治31年)国文学者 落合直文
「あさ香社」設立
与謝野鉄幹 金子華園 尾上紫舟らが集い
短歌改革を表明
1898年(明治31年)子規は「歌よみに与ふる書」発表
万葉への回帰と写生による短歌を提唱

「根岸短歌会」結成 機関誌名当初「馬酔木」
「アカネ」を経て
1908年(明治41年)「阿羅々木」とし
翌年「アララギ」と改名 アララギ派の誕生
ここに蕨真一郎(蕨真) 伊藤左千夫
長塚節 岡麓らが参画
これに参画した女流歌人 原阿佐緒の原阿佐緒記念館
企画展「アララギ」と原阿佐緒のブログに
当時の経緯が要約されている
アドレス
http://haraasao.jp/kikaku-7.html

余談ながら
「アララギ」とはイチイ属 常緑針葉樹の
「イチイ(一位)の木」のこと
「櫟」と書くのは「イチイガシ」の方

もう一つ余談
「アララギ」は斎宮の忌詞のひとつで「塔」を指す
のちの「塔」(主宰 高安国世)はこれに因んだかと思われる
「馬酔木」はずっと下って高浜虚子の高弟 
水原秋桜子が句誌「馬酔木」を創刊

そして川柳

1902年(明治35年)頃 子規による俳句や短歌の
改革に刺激され 阪井久良伎が「川柳は横の詩」を標榜
翌年 子規も所属していた日本新聞に井上剣花坊が
「新題 柳樽」欄を得て新川柳の主張を連載
以降 新川柳が勃興した
詳しくはWikipediaの川柳を参照されたい

作者の内面性を掘り下げた作品や
折からのプロレタリア運動と結びついた社会派
純粋詩を志向した多様な展開をみせた
日本文芸の大恩人 正岡子規への感謝を抜きに
茶柱句会も存在しない

口さきだけの感謝ではなく 真の感謝の表明とは
俳句 短歌 川柳 新体詩の各分野で
革新的な作品を創造することに他ならない


<出展>
本稿における参考事例・内容解説などについては、特段の説明がない限り、
その多くをフリ−百科辞典「ウィキペディア(wikipedia)」によっています。
ここにその出展を明記させていただきます。

井上 明関連サイトリンク
暮らし方研究会
http://www.kurashikata.gr.jp

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