道草其の三 『ポケットに150円』
さて、と
前回から随分時間がたった。
連載が始まっていきなり中断して、ま、それはそれで、道草の本領発揮みたいで僕的にはよかったのだが、「谷口さんはサボっている」と、幾人かの人から言われるにいたり、「コリャイカン・スイッチ」オン!
『こんな風になると僕は予感していたかも知れない』
なんのことかと言えば、日々繰り返すスーパーマーケットライフのことである。
人生の大半の時間を、スーパーマーケットやデパ地下など、買物をするための場所で過ごすことは、何も大人になっていきなり始まったことではない、という事実。
昭和30年代に生を受けた僕が、最初に過ごした大阪の町<※1>は、「コリャーモウ買物天国でっせ!」と子供であった僕は言い切ることはできないが、確かにそれに近い雰囲気はあったような気がする。
学校から帰れば、即、母親のサイフから、こずかいをくすねて、駄菓子屋へ直行、あるいは商店街を端から端まで流す(タクシーかおまえは)。時にはチャリンコで心斎橋まで出て、デパートをひやかす。日によって異なるが、ま、50円から150円ぐらいの予算で。
砂糖の結晶にまみれたイチゴキャンデーを口の中に転がしながら、肉屋のハムカツに思いを馳せたり、オモチャ屋の最新の銀玉鉄砲をチェックしつつ、はやりだした「人生ゲーム」を手に入れる算段をしたり、茶葉を売る店の茶の香りを鼻の穴を思いっきりふくらませて嗅いだあと、デパートの屋上で売っている綿菓子をほうばりにダッシュ!
これがほぼ、毎日デッセ!(もとい!<※2>毎日でした)
こんな毎日をおくっている子供が大人になって買物ナシ!の生活なんておくれる筈がない!
たとえば緑豊かな自然に囲まれたムラに住む子供が
木の実を拾ったり、花をつんだりするように
ビルディングに囲まれた都市に住む子供が
様々なモノを得るためにお金を握りしめてウロツク姿は
コレハモウ当たり前。
人生のスタートの時点から「人生は買物をするためにある」てな感覚を僕は持っていたかもしれない。
こうして大人になった僕は、まるで買物をするためにだけあるような、まち・町・街の存在を奇異に思うこともなく、日々買物にいそしむわけなのだ。
特に身近なスーパーマーケットは、一日一回は行かないと気がすまず、
そこで様々なモノに囲まれてすごす時間を、たぶん至福だと感じているのだろう。
たとえ、結果として88円(税込み)の特価ハブラシだけを買うだけだとしても、特に目的もなく店内をウロツク感覚は、これは僕の道草の神髄かもしれないと、ツクヅク思います。
さあ、今日も人生の大切な時間を使いまくって、道草しよう!
人生の目的地を忘れる程に遠回りをしたおそう! ふんふんふん。
次回は究極の道草、家出にスポットをあててみようかな?
それとも最近の道草事情を丹念に拾うか、乞う御期待!(っていつになるねん!)
<※1>今の若者たちには信じられないだろうが、当時の大阪の町には、戦後が残っており、それは例えば、小学校の裏手にある建物が爆撃されたママの姿で残っていたり、小学校そのものの内部に、防空壕があったり、人骨があったりと、考えてみたら僕はなんとステキなワンダーランドでその幼少期をすごせたのだろうと、今は感謝の気持ちでいっぱいだ。そして今はもう失われた、たくさんの空き地とたくさんの野良犬たちに、感謝感謝!
<※2>この言葉は中学になって、とてもコワイ社会の男の先生から学んだ。むろん先生のあだ名はモトイ!である。
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