茶柱横町 茶柱横町入口へ
 
 
プロフィールを見る
前を見る 次を見る

その9 セルロイドの相撲玩具で「ハッケヨイ!」

運動場にズック靴の先で円を描けば
そこがボクらの本場所さ
小ぶりの土俵に少しゆがんだ仕切線
ハッケヨイ! ベルトがまわしだ、右差しだ
空気はいっそう澄み渡る

がっぷり四つに組むと、小川くん
きみはセルロイドの相撲玩具みたいに軽いね
上手から投げを打てば、土俵を越えて
どこか遠くへ飛んで行きそうさ

だけどボクらは土俵の真ん中で組み合ったまま
いつまでも勝負をためらっている
きみのセーターからはなんだか洒落た匂いが漂い
勝敗をつけるより大事なことがあるような気がして

「これは何の匂い?」
その返事に、きみは風のように投げを打ち
結局、派手に宙を飛んだのは自信満々だったボクで
あれもこれもみんな贔屓力士の分解写真のようさ

そうして夢見心地のボクらは、やがて或る放課後
空気が肌に心地いい秋の日なんかに神隠しに遭ったりする
気が付いたら異国のような見知らぬ露地にいて
見たことのない猫がじっと見つめている

どこへ向かえば家に帰ることができるのか
まったく手がかりのない状態で一歩も踏み出せず
泣き出すことすらできずにいる
塀越しに聴こえてくる木村庄之助の声に
不安と焦りと懐かしさが同時にこみ上げてきたりして
目に入る情景のすべてがあいまいで夢の中にでもいるような

それから小川くん、きみは二度と帰ってこず
きみには想像もできないだろうけどボクらはずいぶんな不良になった
ボクの四肢には、きみと組み合った感触や
投げを打ち合った手応えが残り
セルロイドの相撲玩具で、ひとり技を磨いているのさ


セルロイドの相撲玩具は、昭和30年代の象徴。
 セルロイドの力士とボール紙の土俵でできた相撲玩具は、昭和30年代後半の街のおもちゃ屋で100円くらい。横11センチ、高さ13センチと小さくて素朴なつくりながら、力士が土俵中央で四つに組み合い、ポンプで空気を送り込むと、互いに動きながら勝敗をつける、とういう構造は、動く玩具に魅力を感じ、しかも相撲好きの幼い僕らを喜ばすには十分だった。

 箱の水玉模様はちょっと可愛い過ぎる感じだけれど、土俵の周りには勝負審判や控えの力士も描かれていて、取組みの臨場感を盛り上げている。いろんな駄玩具や玩具を買ったり買ってもらったりしたけれど、いちばん愛着のあるものを一つ、ということになれば迷わずこれを挙げる。僕にとっては小学生時代の玩具や雑貨の象徴で、昭和30年代グッズのベストワンに挙げてもいい。

 当時、尼崎だけでなく阪神間を代表する商店街として賑わっていた三和本通りのおもちゃ屋「ニシダヤ」で、何度か買ってもらった。三和商店街は様子がずいぶん変わってしまったが、この店は今もある。いまだに店の入り口上部に、見上げれば「坊チャン嬢チャンノ店」という、僕らの時代から掛かっていたであろう古めかしい看板がそのまま残っていて、いい感じだ。

 あの頃、人気のあったピストルや縫いぐるみ、ブリキの自動車やプラスチックのままごとセットなど、店に並んだ豪華な商品の中にあって、100円の相撲玩具は最も安価なアイテムだったのではないか。ライフサイクルの長いおもちゃで、僕が知っているだけでも昭和30年代半ばから40年代前半まであったはず。

 おもちゃ屋では低額商品とはいえ駄菓子屋では扱っていない。あの頃のおもちゃ屋、特に「ニシダヤ」は高級感があるような気がして、子ども一人で気軽に入ることのできる雰囲気ではなく、包装紙なども華やかで100円でも結構かしこまった買物だった。なにしろ子どもの散髪代が100円、しかもキャラメルが付いていた時代(当時、近所の散髪屋さんMでは子どもに10円の森永のミルクキャラメル小箱をくれた)の100円だから、他のものに比べると玩具は高額な贅沢品だ。僕らにとって「ニシダヤ」は、年に数度、胸躍らせて訪れる特別な場所だった。

 向き合った二人のセルロイド製力士は、針金に固定され、その針金は、土俵の中央を通り箱の底にあるガラス板の上に乗っている。その下にはごく小さな紙風船状のものがあって、それが膨らんだり萎んだりすることで、ガラスの板が上下し、針金が振動、つられて力士はハッケヨイと動き出す。外に付いているラグビーボールの形をしたゴムポンプを指で押してゴム管から空気を送り込み、紙風船状のものを膨らます簡単な仕掛け。

 2体の力士は、投げを打つでも、押すでもない。金属の棒で留められていることもあって、ダイナミックな躍動は難しい。小刻みに動きながら、だいたいあっけなく土俵を割ったり、ヒザから落ちたりして勝負がつく。ときには同時に俵から足が出たりもする。見方によっては相撲を取っているというより、ぎこちなく動いているだけ、という感じではあるが、それは大人の醒めた感覚で、ピュアな僕らは力士の対戦する玩具として熱中し、十分に楽しんだ。

 電池で動くブリキの自動車やロボット、宇宙船などとはまた異なる、親近感のある玩具だった。安価で単純な割りによくできている、と当時も今も思う。残念ながら写真のものは、ゴムが劣化していて空気を送り込めないので、かつてのように動かすことはできない。その代わりセルロイドの質感、紙の色合いともに、いい味わいになっていて、昭和30年代の雰囲気をあたりにまき散らしている。



手頃な値段に、胸高鳴らせて、ようやく入手。
 写真のものは、今はもうなくなってしまったが、10数年前、「おもちゃ博物館」(京都書院 全24巻)の著者でもある多田敏捷さんという、日本の玩具研究の第一人者がやっていた大阪市北区老松町の古美術店「あぜくら」で購入した。昭和30年代グッズを集め出した頃、大きな骨董祭では1万円を超す価格がついていたこともあって思い切って買えなかった。何度か見かけて欲しかったのだが、とても正当な価格とは思えず、ちょっとは迷ったような気もするが、「これくらい出すならいつでも買えるはず」と強がりながら、横目で眺めてとりあえず素通りしていた。

 その後たまたま入った「あぜくら」で、片隅に何気なく置かれているのを見つけ、値段を聞いてみると案外手頃な価格で、子どもの頃に負けず劣らず胸高鳴らせて買った。多田さんによると、同じものを昔たくさん仕入れ、世間の価格の高騰とは関係なく、同程度の価格でずっと売り続けている「あぜくら」のロングセラーということだった。とても嬉しく、セルロイドも紙の箱も傷みやすいので小鳥のヒナでも扱うようにして大事に持ち帰り、目のつくところに飾って満足していた。

 実はもう一つ同じ玩具を持っているのだが、そちらは「あぜくら」で購入してから一、二年後、四天王寺の骨董市で手に入れた。顔見知りの出店業者さんが持っていて、詳しくは聞かなかったが、閉店したおもちゃ屋か問屋からある程度の個数を買い付けてきたもののようで、「あぜくら」で買ったものよりさらに少し安かった。ほぼ同じものなのだが、空気を送り込む管がゴムではなくプラスチック製で、昭和40年代に入ってからのものと思われる。ゴムのポンプ部分も若干異なる。状態も良好で、手頃な価格の良品を見つけた以上素通りすることもできず、喜んで一つ買っておいた。

 肌色と白色、色の異なる2体の力士は、髷も結っていて、表情もリアル。さがりこそ付けていないが、お腹も出ていていかにも幕内力士という感じ。子どもの頃、この小さくてふっくらしたセルロイドの立体感が好ましかったが、現在もその印象は変わらない。手足は、針金で可動するように接続され、ディテールもこなれた感じでうまくできている。

 紙相撲がより立体的に格好よくなった、とでもいうのだろうか。ただ紙相撲は一人でも二人でもできるが、この玩具は、空気を送り込むボール状のゴムポンプは一つしかないので、一人遊び用である。玩具の種類としては動――陽であるが、遊び方としては日光写真と同じく静――陰(つまり孤独好きな子どものためのもの)なのかもしれない。まあ、遊び方にもよるが、基本的には野球盤のようにみんなでワイワイいいながら遊ぶものではないだろう。

 セルロイドの相撲玩具は、戦前からあったようで、先ほどの多田さんの「おもちゃ博物館」には、土俵の部分が異なるデザインのものや、ボール紙の土俵部分が木でできたしっかりしたものが紹介されている。セルロイドがまだ新しい素材だった昭和の初め頃には高級玩具だったのかもしれない。戦前のものもセルロイドの力士や空気を送るポンプなどは昭和30年代に売られていたものとほぼ同じ。MADE IN JAPANでムーブメントをもたらしたゼンマイや電池で動くブリキの玩具のように斬新なギミックやスタイルは何も盛り込まれていないのだが、僕には格好よく見えた。とりわけセルロイドの力士は気に入っていた。



あの頃、勝っても負けても僕らは相撲が大好きだった。
 相撲の玩具が存在するのは、子どもにも絶大な人気があったからである。ベッタン(めんこ)や日光写真の種紙(ネガ)などにも大相撲の人気力士のものは多かった。昭和30年代は栃若から柏鵬時代で、テレビ放送とも相俟って、大相撲や相撲に関する読み物も、今とは比べものにならないくらい多彩で、子どもでも大相撲の知識は豊富に持っていた。「少年」や「ぼくら」、「少年サンデー」や「少年マガジン」といった少年誌はもちろん、小学3年生、小学4年生などの学年誌にもよく大相撲の情報が取り入れられていた。

 ちなみに僕の持っている「少年マガジン」の昭和36年1月22日号(1月15日との合併号)は、大ずもう初場所特集号で、当時ともに大関で人気のあった柏戸と大鵬にスポットを当て、インタビュー記事などが載っている。相撲の変遷の図説や「ひとめでわかるくみ手、きまり手」といった丁寧な解説もあり、当時の小学生にはとても役に立つ内容だ。僕がずっと後になってわかったことなんかもきちんと説明されている。

 僕らより少し前の世代になるが、昭和34年3月に発行された「少年マガジン」の創刊号の表紙は子どもを抱き上げる大関時代(横綱になる直前。現在の高砂親方の先代)の朝汐太郎だ。ライバル誌の「少年サンデー」の創刊号表紙は巨人軍の長嶋茂雄である。つまり大相撲の人気力士は、かの長嶋茂雄に匹敵し得るだけの人気者だったのだ。

 大相撲放送の影響か、昭和30年代の小学生はよく相撲を取った。僕らの小学校では休み時間になると、校庭に円を描いてクラスの誰彼かまわず四つに組み合った。それを見つけるとクラスのみんなは土俵の周りに集まってきて、勝てば次々に挑戦してくる。タイミングよく見事な投げをくうと、足は地から離れ、視界にはグラウンドや校舎が、樹や雲が一瞬に流れていって、衝撃とともに静止すれば目の前に悔しい空があったりして。にしても、あの頃の僕らは勝っても負けても相撲が大好きだった。

 運動場でがっぷり四つに組み合うと、ある種抱き合っているようなもので、その子がなんとなくわかるような気がした。腰が重い、腕力が強い、技が鋭いといった相撲や体力の力量だけでなく、性格や家庭環境のようなものまで、より深く推し量ることができる、というような。髪や肌、服にはその子の匂いやその子の家庭特有の匂いがあって、それは一人ひとり微妙に違っている。もちろん取り口にも、勝ち方にも負け方にも気質がでる。だから土俵の真ん中で組み合っていると、勝敗だけではない、さまざまなことが感じられたような気がした。相撲を取りながらそんな感慨にぼんやり耽っていたのは僕だけかもしれないけれど。ただ、校庭でしょっちゅう組み合った友達のことはよく覚えているものだ。

 小さいけれど頭をつけるしぶといタイプ、体力で圧倒してくるタイプ、寄って寄って寄りまくるタイプ、隙あらば足を飛ばしてくるタイプ、あくまで投げ技にこだわるタイプと、取り口もさまざまで、また乱暴なことが嫌いで無理をしない、勝ちにこだわらない性格のクラスメイトもいて、相撲のスタイルも決まり手も多種多様。小手投げ、出し投げ、すくい投げ、土俵際で起死回生の首投げ、寄るとみせての上手投げ、上手から振っておいての下手投げ、やにわに引きつけて外掛け内掛け、押された振りして、業師・若浪ばりのうっちゃり狙い、起重機・明武谷の真似をしての吊り出しなどなど、大相撲の本場所にも負けないくらいバリエーションに富んでいた。

 まわしの替わりにズボンのベルトを持って振り回すので、ベルトを通す部分はよく破れたりちぎれたり。毎日着ている一張羅の袖は伸び、腋は綻び、ボタンはちぎれ、さらにはズボンが破れて一大事ということもよくあった。それに相撲だけのせいではないが、あの頃、僕たちはいつでもヒザやヒジを擦りむいていて、保健室に赤チンやヨーチンを塗りに行くのが日課のようになっていた。



いちばん印象に残っているのはクラスメイトとセルロイドの力士。
 あの頃のことを思い浮かべると、もちろんそんな筈はないのだが、昭和30年代の夕方は、毎日大相撲放送があったような気がする。カチカチと乾いた拍子木の響き、呼び出し独特の節回し、甲高い行司の声、歓声とざわめき、実況するアナウンサーの調子、渋めの解説。ラジオに耳を澄ましていなくても、テレビをじっと観ていなくても、大相撲は日常のすぐそこにあった。あわただしい夕餉の支度や匂いなんかに大相撲放送は溶け込んでいて、街角で聴こえてくる大相撲の実況は、時計代わりでもあった。大鵬や柏戸が土俵にいればそろそろ家に帰る時間だ。

 この相撲玩具は、2度か3度買ってもらっている。何度か買ってもらったのは遊んでいるうちに壊れてしまい、忘れた頃に、おもちゃ屋で見てまた欲しくなったのだろう。買った期間はずいぶん開いていると思う。セルロイドとボール紙でできているので、力士をポンプを押して対戦させていれば結局どこかに不具合が起こる。セルロイドは凹みやすいし、手足の針金部分は外れやすい。空気を送り込むポンプやポンプと接続している紙部分が破れたりして動かなくなることもある。ブリキの玩具やプラスチックの銀玉鉄砲などと比べるとかなり繊細な玩具で、耐久性は極めて乏しい。

 最後に買ってもらったのは小学校4年生の時だったか、そろそろモーター付きのプラモデルも作れるようになってきた頃で、周りから見ると少し幼稚な玩具だったのだろう。玩具やグローブといった金額の大きなものを買ってくれるのは別の場所に暮らしていた父で、父は、子どもが買うものや買ったものにあれこれ言う人ではなかったが、一緒に住んでいた祖父母に、そんな意味のことを言われて大いに腐った覚えがある。

 あの頃、昭和30年代後半、記録や名勝負というと大鵬と柏戸なのかもしれないが、僕は、どちらかというと大関になった栃光や北葉山といった、あまり大きくなくてしぶとい力士が好きだった。けれど子どもだったせいか、当時、それほど深い愛着のあった力士はいなかったような気もする。熱烈な相撲ファンである祖父のそばで観ていたのだが、祖父ほど身を乗り出すようにして画面に見入っていたわけではない。後年、大関になれなかった長谷川が、どういうわけか大好きで、それこそ手に汗をかいてドキドキしながら応援したものだが、子どもの頃にそこまで肩入れした取組みは記憶にない。

 買っても負けても表情も気配も変えない、いつも端整な豊山(子どもの頃は張り合いがなかったが、今から思えば美しい力士だった)、若浪や明武谷などの見るからに個性派、若秩父や若見山といったあんこ型の幕内力士もよく覚えているが、やはり当時いちばん印象に残っているのは、校庭でがっぷり四つに組み合ったクラスメイトたち。それから、「ニシダヤ」で買ってもらった相撲玩具の、土俵上で小さく動きながら対戦していたセルロイドの2力士も、その中に入れてもいい、かもしれない。

その13
「ベッタン」(めんこ)で、
少年を磨く。

その12
昭和30年代の「お正月」

その11
少女は、ミツワ石鹸の香り

バックナンバーINDEX
前を見る 次を見る
| 著作権について | このページのトップへ | 茶柱横町入口へ |