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その13 「ベッタン」(めんこ)で、少年を磨く。

関脇安念山は強いか? 怪腕稲尾は頼りになるか?
ベッタンは腕と度胸の見せどころ
いつもは静かな路地の片隅が
しばしボクらの鉄火場となる

このところ連戦連勝の若乃花を
思い切り腕を振って地面に叩き付けると
バットを構えた長嶋がふわりと裏返る
「ほうら、ね」ボクは得意満面だけど
弟は何か言いたそうにボクらを見上げている

勝ちと負けには天の差配のようなものがあって
取っては取られ、取られては取り戻し
なぜか時折きみの顔が思い浮かんだりもして
書道教室に行く時間は刻々と迫るけど
すでに降りるわけにはいかなくなっていて

いつも微笑んでいる米屋のオヤジが
自転車のベルを鳴らしながら何度か路地を通り過ぎていき

気が付けば月光仮面も、まぼろし探偵もなく
黒光りしたお気に入りの杉浦は、
いつの間にか相手の切り札になって活躍している

「アホやなぁ」ときみは言うだろうか?
だけど、負けることも、失うことも
決して悪い気分ばかり、といったものでもなく
かといって良いはずもないのだけれど
なんとも言い表しにくい心のありようで
良くないことに、ちょっと快感にも似ていて

琴ヶ浜があんみつ姫にやられ
東千代之介がハリマオーに裏返され
賭ける枚数はどんどん多くなり
辺りには夕餉の匂いが漂い
習字に行く時間はとっくに過ぎて
最後には一枚も残すことなく
残念がる弟と二人、腹を空かせて家に帰る

勝負の山場でスローモーションのように裏返されてしまった若乃花も
今頃はきっと、誰かのブリキ缶の中で照れているだろう



大きさ、形状、絵柄など、さまざまなものがある。
僕らが取り合ったのは、ごく普通のサイズ、厚さのベッタン。
骨董市などでもいちばんよく見かける。



古びたもの、使い込まれたものへの
どこからか涌きでる、親しみと憧れ。


 子どもの頃から古びたものが好きだった。まだ小学校に上がる前、阪神電車神戸線出屋敷駅のそばにあった古銭屋の、小さなショーウィンドーを見たくて仕方がなかった。そこは店舗というにはあまりに地味で、出入り口横の、わずか50センチほどの、ほんとに小さなショーウィンドーだったのだけれど、見たことのないコインが並んで鈍色の輝きを放ち、覗き込む度にワクワクした。買えるものなど何ひとつないにもかかわらず、その店の近くまで来ると、少々遠回りになっても、わざわざ見に行ったりして、いつもそこに引き寄せられるのだった。

 それが何であったのかよく分かってはいなかったはずだけれど、ほかでは見ることができない珍しいものを見るような感覚だったのだろうか。楽しげなおもちゃが並んでいる三和商店街の玩具屋・ニシダヤの店先や小鳥屋(今でいうペットショップ。賑やかな商店街にはたいていあった)で文鳥の雛鳥を見るのとは異なる興奮やときめきがあった。

 明治生まれの祖父母との暮らしは、新しいものより古いもののほうが多かった。戦前に家と店のあった場所は強制疎開で失ってしまったが、家財道具は祖父母たちとともに大阪・茨木の郊外に疎開していたので無事だった。普及しはじめた電気製品や衣服は別として、タンスや水屋、お膳など、あの頃僕が家で目にしたり使ったりしていたものはほとんどが戦前のものだったに違いない。父や伯父たちが学生時代に使っていたインク瓶や本立てなども残っていて、中学生になった頃(それまでは使わせてくれなかった)に僕が譲り受け、今も使用しているものが幾つかある。

 僕が4、5歳の頃、気軽に開けることのできた水屋の引き出しには、もう流通していない1円未満のニッケル貨などの小さくて軽い古銭(といえるのかどうか)があって、5円玉や10円玉の代わりにそんな古銭を握りしめて近所の仲間たちと駄菓子屋に行ったことがある。どういうわけだか、その店のおばさん(駄菓子屋をやっていたのは圧倒的に中年のおばさん――中年に達していなかった若いおばさんもいたはずだけど――が多かった)は十銭や五十銭硬貨でも、適当に駄菓子を売ってくれ、何度かそんなことを繰り返すとあらかた古銭はなくなってしまった。

 そうした自分で手に触れた古銭への親しみもあったのかもしれない。古銭屋に飾られていたコインは、もっと古い、大正以前の、コレクションとして値打ちのあるものに違いないが、自分が実際に手にして駄菓子屋で遣った十銭や五十銭玉と同じ系列のものと感じていたということもあるだろう。

 祖母が使っていた裁縫箱の中にいかにも古びた箱がしまわれていて、そこにはかつて衣類に付いていた大小さまざまなボタン類が入っていた。古いガラスのボタンやメダルのような金属製ボタンやホックに混じって、バッヂやガラス玉などちょっと珍しいものも混じっていて、縫い物をしている祖母のそばで、その箱を開けて眺めたり触ったりするのが楽しみだった。とりわけ気に入ったいくつかは、ねだって自分のものにした。



質の悪いボール紙に印刷されたものゆえの、独特の色調が今では好ましい。
微妙に版ズレしてピントの合わない絵柄のものもよくあった。
当時の学年誌や少年誌の組立附録の印刷もよく似た質感だった。



ベッタンは、古びたものほど、
謎めいて、強そうで、格好いい。


 古びたものに惹かれる感覚は、ベッタンでもよく似ていた。ベッタンは関東(標準語文化圏)でいう「めんこ」のこと。あぶらを塗ったものは「あぶらめん」、ロウを塗ったものは「ロウめん」、丸いものは「丸めん」などと言っていたが、尼崎周辺――大阪あるいは関西全般?――ではそれ自体のことは「めんこ」とは言わず「ベッタン」と呼んでいた。バッチやパッチンなど地域によってさまざまな名称があるようだ。

 この感覚はビーダン(ビー玉)やバイ(ベーゴマ)などにも共通しているのだけれど、駄菓子屋にいま現在売っているものではなく、もうどこを探しても買うことができないような、ほかの誰も持っていない、時間によって風格が増したり、誰かが使い込んで味わいを深めたようなものは、いかにも歴戦のつわものという感じがして、ただそれだけで格好がよかった。

 戦前の力士やモノクロの野球選手など珍しい絵柄は、大量のベッタンの中にあっても、紙の感じや色調が異なるので、そこだけ目立って、独特のオーラのようなものを放っている。それほど古いものでなくても、遊んだり使ったりしているうちに、自然に手垢が付いたり、擦れて色が薄くなったり絵柄が消えかけたり、全体的にくすんだりしていくと渋くなって、オリジナリティあふれた一点ものという感じで愛着も増してくる。

 ベッタンとは別の話になるが、小学3年の秋頃から熱中した切手蒐集でも、古びた感じのものを好む傾向があった。発行されたばかりの真新しいものではなく、自分が生まれる前にデザインされたような、少し褪色気味の、どこか懐かしげな意匠の切手を、意味もわからずに選んで集めていた。当時は切手ブームということもあって、通学路の近くに、主に小中学生相手の切手専門店ができ、ストックブックを持って毎日のように通うのであるが、1年ほどで何となく熱が冷め、集めるのをやめてしまう。

 国際文通週間の蒲原や桑名、文化人シリーズの市川団十郎や西周、正岡子規(その肖像はみんなちょっと怖かった)、写楽の海老蔵、マナスル登頂記念、月に雁、見返り美人など、持っていてもいなくても、いまだに絵柄を憶えているものも多い。かなり小遣いも時間もかけて集中的にのめり込んで集めたにもかかわらず、中学1年のとき、貸したのをきっかけによく考えもせず気前よくストックブックごと友達にあげてしまった。このストックブックは、当時、自分自身がどんなものに興味を持ち、集めていたのか、もう一度見てみたいものの一つである。

 それ以外のもの、例えば消しゴムや鉛筆、下敷き、筆箱といった文具類、衣服をはじめとした身に付けるものなどは普通に新しいものを好ましいと思っていたので、古びたものに魅力を感じていたのはごく一部のものに限られるのではあるが……。

 もう少し後になるが、コマの周囲に鉄の輪を巻いた、鉄ゴマ(喧嘩ゴマとも呼んだ)という僕らの周辺ではとても珍しい種類のコマを友達が持っていて、それはずいぶん古いもののようで欲しくてたまらず、同じものを探して、いろんな駄菓子屋を尋ね回ったことがある。ごくたまに、その店での残りものなのか、問屋さんに残っていたのか、時代がかった古めかしいものを置いている駄菓子屋もあったので、「もしかすると」と、日常の行動範囲を越境して見知らぬ町をウロウロし、結局見付からなかったのであるが、結果はどうあれ探し回ること、それもまた楽しいのである。これもベッタンとは別の話になるのだろう。



初めての真剣勝負は、真新しい
ベッタンであっさり敗れ去る。


 ベッタンを本格的に取ったり取られたりするようになったのは幾つくらいだろう。阪神出屋敷の駅前で、コインを眺めていた幼稚園児の頃から少しは手にしたこともあり、近所のお兄さんたちの白熱した勝負を眺め、彼らが切り札にしていた、手垢がついていかにも強そうなものや、質感の違った珍しいものを見てぼんやり憧れていた。兄弟から譲られたのか、古くから家にあったのか、彼らが持っていたベッタンの中には、その後の小学生時代に見ることもできないような、古めかしい逸品がたくさん混じっていたように思う。

 最初は大きなクッキーの缶いっぱいに持っているような2、3年上のお兄さんから「ほら」という感じで2、30枚もらったのではないか。標準的な絵柄の、擦れて角の丸くなった、少し使用感のあるもので遊んでいた記憶がある。

 何分こちらは小学校に上がる前の幼児だから、缶や箱に入った大量のベッタンを脇に置き、スポーツでもするように颯爽と勝負をしている少年たちは、相手にというか、見向きもしてくれない。彼らにとって近所に住む、自分の弟と同い年くらいの幼児は、勝負する相手ではなく、庇護すべき対象なのだ。幼い子ども同士、邪魔にならぬよう、極めて迫力に乏しい「ベッタンごっこ」とでもいうような真似事をしていたのだろう。

 はっきり記憶にあるのは小学2年頃のことで、幼児の頃とは違う場所に引っ越していて、そこには無造作に一掴みくれるような気前のいい年長の知り合いも友達もおらず、駄菓子屋で1シート5円のものを買い、はさみで切って自分なりにサイズを揃えて、一枚一枚、軽く折ったり曲げたり角をこすったり、とりあえず戦えるように体裁整えて、校区外の地域に足を伸ばして勝負しに行ったことだ。

 厚みのあるボール紙にカラー印刷され、20〜30ほど連なって5円程度のものが多かったが、一枚ずつきれいに裁断されたもの、金紙や銀紙を用いて高級感?
を演出したものなど、いろいろなタイプがあった。蝋で周囲を固めた、飛ばして遊ぶ小さな丸めんやビッグサイズの丸めん、分厚くて大きな角めんなど大きさや形状も多様だったが、実際に取ったり取られたりするのは、ごく普通の標準タイプのものだった。

 月光仮面やまぼろし探偵など、テレビで人気のキャラクターが描かれたものが多く、そのほとんどが無版権だったはず。似ても似つかない栃錦や若乃花、迫力の乏しい力道山や長嶋、名前が描いていなければ誰ともわからない稚拙な海底人8823や白馬童子など、そのクオリティはともかく、当時のテレビのヒーローやスターたちで、ベッタンに描かれていない人や主人公はいなかっただろう。それくらいベッタンは大量・多種に生産され、僕らには馴染み深いものだった。どんな季節にもあったし、場所も取っていたから当時の駄菓子屋でいちばんよく見かけたアイテムだったかもしれない。

 だけど本来、僕らの間ではベッタンは無闇に買うものではなく、最初は4、5枚、あるいは10枚ほど、もらったり借りたり、あるいは別のものと交換したりして、そこから倍々ゲーム的に増やしていくものだったのである。特に高学年になれば、勝負の度に、対戦相手とは異なる友達に融通し合ったりすることがよくあった。貴重な小遣いをベッタンに費やすのはもったいない、という感覚だったのだと思う。それほど使い古されたベッタンは子どもたちの間にたくさんあった。買うのは幼児か初心者で、真新しいベッタンは、勝負の場ではあまり格好のいいものではなかったのだ。

 何がきっかけだったのかはよく憶えていないのだが、そんな事情をまだ知らない小学2年生の僕は、真新しいベッタンだけを持って特に戦術もなく勝負に挑み、違う小学校の初対面の相手に、まったく相手のペースのまま、短い時間であっけなく負けてしまった。

 その子とは一度だけのやりとりで、再び会うこともなく、どこの誰なのか、名前すら知らないままだ。どんな子だったのかすらもよく憶えていないのだが、あっさり負けた屈辱感だけは鮮やかに残っている。


ベッタンの裏側には、必ずジャンケンや数字、記号などが単色で印刷されていた。
両面で遊べるように、ということなのだろうが、僕らは裏面で遊ぶことはなかった。



最後には古いも珍しいもなく
運と実力を賭して「大勝負」となる。


 勝負には大別して「返し」、「抜き」(どちらも「ん」を付けて「返しん」、「抜きん」と言っていたような気がする。)の2種があり、「返し」は、一枚ずつの勝負で二人から数人まで何人でも参加できる。路上(主に土の上)に置かれた敵のベッタンを、自分のものを叩き付けて風を送り、裏返せば勝ち。返した相手のベッタンは自分のものになる。ベッタンを「強そうだ」というのは、この「返し」の際、攻撃時には、打ちつけたときに投げやすく、相手を吹き飛ばし返してしまう迫力のある風を起こすことができ、防御のときには微動だにせず、めったなことでは裏返らない、どっしりとした重量感、安定感のあるものをいう。

 誰もがこの「返し」から始めたのだと思う。僕も長い間、「返し」だけで遊び戦っていた。強いベッタン――強い子、経験豊富な子どもは研究・開発にも長けていて、技術や気合はもちろん、頼りになる切り札を何枚も持っている――を相手にすると、一枚ずつ取り合っても、20〜30枚はすぐにカタがつく。特に買ったばかりの新しいものは軽くて返しやすくカモにされる。そこでみんな、油に漬けたり、蝋を塗ったりして重くしたものや、標準よりやや大きめに切られたもの(わざと大きめに調整する)など、それぞれに工夫した切り札を持ち合って競い合う。

 「抜き」は一枚ごとでなく、50枚でも100枚でもいくらでも賭けることができる。極めて賭博性の強い勝負だ。この場合は数えるのでなく、互いのベッタンを高さや目分量で出し合っていた。厚い・薄いがあるため枚数は全く同じにはならないが、賭ける枚数が増えてくるほど大雑把になってくるし、「大体でいいよ」みたいな感じに振舞いたくなる。それに100枚や200枚をその都度正確に数えていたら時間がかかって勝負にならない。

 賭けたすべてを台(長椅子とか木箱とか、段さえつけばなんでもいい)などの上に置き、抜くものを一枚だけ決める。互いに(1対1の場合もあるし3、4人、あるいはそれ以上の複数で競う場合もある)自分のベッタンを打ちつけて、決められた1枚だけを台から落としたものが勝者となる。なかなか目当てのものが落とせなくて勝負がダレてくることもあるし、たった一発、最初の一撃で重なり合った中から目当ての一枚を鮮やかに抜き落としてしまうこともある。

 他のものを一緒に落とすと一からやり直し、自分のベッタンが同時に落ちてはいけない。一枚だけをきれいに台から落としたものがすべてを手に入れる、というルールで、賭ける枚数はどんどんエスカレートし、最後にはすべてを賭ける、という大きな勝負になったりする。みんなが注目するような大きな勝負は1対1で戦うことが多い。その結果、あっという間に数百枚(ときには千枚を超える)を得ることもあるし、また、すべてを失うこともある。

 小学生も中学年から高学年になると、「抜き」が増えていき、徐々に「返し」はやらなくなっていく。台の上から落としたベッタンを下に落ちたものに重ねる「重ね」(重ねん)というのもあったが、これは僕自身あまり経験がない。一枚ずつではなく、何枚かを賭けて「返し」をやったこともあるが、「返し」の場合、あくまで一枚ごとに競うのが基本だ。地域によってはもっとバリエーションがあるのだろう。

 50枚、100枚と、大量の勝負になればなるほど、こだわっていた一枚一枚の絵柄はいつの間にかどうでもよくなってくる。どんな珍しいベッタンも、「返し」であんなに華々しく活躍したベッタンも、当然ながらそこでは一枚としてしか数えられない。どうしても失いたくない特別なお気に入りは最後まで取っておくにしても、勝負の展開は早く、一掴み、あるいは一山、一箱単位になってくれば「これは古めんだから、こっちは写真めんだから、返しの際の切り札だから」と選んではいられない。もし気になったとしても個々のベッタンに執着することはあまり格好いいことではなかった。ベッタンの勝負は、どんな場面でも鷹揚に気風よく振舞うのが基本なのだ。



ベッタンに熱中していた期間はごくわずか。
だけど、そこにはドラマが凝縮されている。


 誰しもベッタン(あるいはビーダンやバイ)で勝ったり負けたりするまでは、ゲームの勝敗で相手のものを容赦なく奪い取る、あるいは自分の持ち物を一瞬にして失う、といった劇的な体験をしたことがないわけで、どっちにしても普通の心理状態ではいられない。有頂天になったり、逆上したり、難癖をつけたり、泣いたり、といろいろなシーンが展開されるのも、勝負で勝った子どもと、負けた子どもとでくっきりと明暗が分かれるからで、ここでは運や実力以外のものも試される。

 勝負が進み、賭ける枚数が増えるほど場は荒れてくる。緊張も高まるし、殺気立ってもくる。それが頂点に達するのがその日の戦いも終盤にきて、誰かがすべてを賭けようとするときだ。もちろん対戦相手同士のバランス、それぞれのキャラクター、それまでの展開なども関係してくるので、大量のベッタンを賭けたからといって、常に荒々しいムードが漂うわけではない。すべてを失っても(すべてといってもベッタンだけど)案外のんびり、さばさばしているケースもあったりする。

 実際には、あの頃、僕らは毎日ベッタンをやっていたわけではない。ベッタンは晴れてさえいれば一年を通してできるのであるが、いつも夢中になっていたわけではないのである。春から夏にかけては銀ヤンマや鮒を追いかけていたし、セミやザリガニも捕らねばならない。人数が集まれば、三角ベースもするし、カン蹴りや探偵ごっこ、Sケンに熱中したりもする。2B弾や銀玉鉄砲にも夢中になった。

 季節を問わず、時折、どこかの路地(ロージと発音する)で誰かが思い出したようにベッタンをはじめ、他の地域の子ども(主に高学年のリーダー格)なんかも巻き込みながら一気に盛り上がって、何となく終息していく。その間1週間くらいだろうか。もっと短かったかもしれない。他の遊びをはさんで断続的に行われることもある。ごく一部だけ盛り上がって終息してしまうこともある。パターンは多様だった。

 ベッタンは、カン蹴りのようにみんなで同時に遊べるものでもなかったし、全部負けてしまえば見物に回るしかない。場合によっては隣の校区にまで足を伸ばしたりもするが、勝負は早く、勝つにしても負けるにしても、いつまでもベッタンで遊び続けることはできないのだ。ブームが去れば、また数ヶ月、ときには半年、1年と、ベッタンは誰かの家の玄関や縁の下などで、ひっそりと振り向かれるのを待つことになる。

 大勝負に勝って大量のベッタンを手入れても、家に持って帰れなかった子供もいた。ビーダンなども共通するが、あまりに賭博性が強いので、一部の大人たちからは健全な遊びとは見られていなかった。親の考えにもよるが、大勝ちしたからといって、家に帰って素直に報告するわけにはいかなかったのだ。

 密かに隠し持つ、誰かに預けるというケースもあり、そういう場合は、大量になればなるほど所有するのも一苦労だったのである。今までは見て見ぬふりをしてくれたのに、何かをきっかけに「全部母ちゃんに捨てられた」、「父ちゃんに捨てさせられた」というようなこともあったりする。


「色出魔法カード」とあるが、実質はベッタン。
水に浸けると変色する凝ったタイプで、僕が子どもの頃は見たことがない。
映画スターの顔ぶれから昭和30年代前半に販売されていたものと思われる。



ベッタンとは、勝っても負けても、
いずれはすべて失ってしまうもの。


 そんな当時の少年たちの、いろいろな思い、物語が込められているせいか、ベッタンを蒐集している人は多い。たかが古ぼけた紙片なのだが、「あんなもの」で片付けられない何かがあるのだろう。戦前のものはもちろん、昭和20年代から30年代にかけての野球選手や映画スターの写真めんこなど高値で取引きされているものも少なくない。ヤフーオークションで驚くような価格になることもある。当時よくみかけた何気ない絵柄のものでもそれなりの値段が付いているようだ。古い問屋や廃業した駄菓子屋から出てくるのだろうか、まだハサミの入っていない未使用のデッドストックも結構見かける。

 種類も豊富で、集め出せば奥行きもあるのだろう。あの頃、貴重なお小遣いを費やして、カタログを眺めながら、「これも欲しい、あれも欲しい」と、必死になって集めた切手より、ただ同然でやりとりしていたベッタンのほうが高額になっているものもあったりして、駄玩具類では最もコレクターが多いのではないか。

 さて昭和30年代の子どもたちにとって、ベッタンは手に入れるためにあるのか、それとも失うためにあるのか。まあ、当然ながらそのどちらでもあるのだが、僕の場合、長く手元にあったためしはない。たとえ大勝ちしたとしても(数えるほどだけれど)、それを狙って誰かが挑戦してくるので、いくらつきにつきまくっていたとしても、やり続けていればいつかは負けて、すべてを失うことになる。勝負し続けて、いずれは銃弾に斃れていく西部劇のガンマンのようなものだ(そんなに格好よくはないけど)。

 どちらかといえば、近所の仲のいい友達やクラスメイトとは大きな勝負はしない。あまり知らない、違う校区の似通った年恰好の子どもや、少し年上の子どもなど、入り乱れて取り合うことが多い。技術や集中力、気合で運を引き寄せることも大事だけれど、実際には要領のよさや強引さがモノをいう。ハッタリが効くこともある。ただ、あまり知らない相手に負けるのは屈辱で、微妙なルールの解釈やジャッジなどもからみ、なんとなく得心のいかない負けもあるので、たいへん悔しいのであるが、「あれは残しておけばよかったなぁ」と一瞬、失ったばかりの古めんなど、お気に入りを脳裡に思い浮かべたりはするが、塊としてのベッタンそのものにはあまり執着はなく、負けたあと家に帰ってくればもう忘れてしまっていたように思う。

 とはいうものの、多くがそうであるように、ベッタンもまた、勝ったことより負けたことのほうを良く憶えている。初めて体験した敗北などはなおさらだ。それだけ印象鮮やかというのか衝撃が強かったわけで、幼児の頃に憧れた、颯爽とした年上の少年の真似をして、気風よさげに、失ったことを気にしない風を装っていても、実際のところは深く傷付いていたのだろう。あの頃、ベッタンに負ける、というのは幼児から少年への通過儀礼の一つだったのかもしれない。

 だけど少年時代に、万が一誰にも負けることなく、大量のベッタンを所有し続けていたとしても、中学、高校と大人になるまでのどこかで、弟や友達に譲るか、自ら捨てるか、家族に捨てられるかして、すべてなくしていたに違いない。いい年をしたおじさんになって、遠い少年時代、とっくに決別したはずのベッタンを、再び欲しいと思う日が来るなんて、しかも古書や骨董のように価格が付いて取引きされるなどとは、あの頃誰も考えもしなかったのだから。いずれにしても僕らはベッタンによって、賭博の快感を味わい、手痛いまでの敗北を知り、そして喪失について学んだのだ。



その13
「ベッタン」(めんこ)で、
少年を磨く。

その12
昭和30年代の「お正月」

その11
少女は、ミツワ石鹸の香り

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