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その8 はつなつの、螢籠

電子仕掛けの黄昏
ボクはマウスをクリックして
螢を一籠買うだろう

螢が届いたその夜に
かの日の祖父を真似て
螢籠に霧を吹きかけ
螢を寝間に放つだろう

あかりを消した空間で
螢たちは、頼りなくふわふわと
おしりを瞬かせて舞うだろうか
水辺の、草の、匂いをさせて

けれど、もう
小さな弟たちがはしゃいだ声で
明滅する光を追うことはない
ボクらの昭和はアーカイブスとなったのだ

夏の初めに祖父が
螢売りのふりをして
夢にあらわれるのはそのせいさ

朝、螢は畳の上で足を縮めて
拝むように裏返っているだろうか
死んだ螢は、やはり焦げたような
匂いがするだろうか

けれどボクらの夏は、それからが佳境で
空になった螢籠は
螢の匂いと、はつなつの気配を閉じ込めたまま
ぽつねんとただそこにある

それでもボクは光に見とれながら
子供の頃、上映前の映画館でそうしたように
息をひそめて夢のはじまりを待つだろう
そして、待ちかねた螢売りの登場に
「どこからきたの?」と尋ねてみるだろう


昭和の真ん中で、夏のはじまりを告げる、螢と螢籠。
「ほう、ほう、ほ〜たる来い、そっちのみーずはかーらいぞ、こっちのみーずはあーまいぞ」という歌はいつの間に憶えたものか、気が付いた時には知っていて口ずさみもしたが、40年程前の僕が子供のときですら、その歌詞の内容は、郷愁という言葉が似合うような、ずいぶん昔の情景、あるいは遥か遠いどこか違う世界のこと、という感じがした。

 僕ら昭和30年代の阪神電車沿線に暮らす下町の子供にとって、螢は、まだ蝉が鳴きはじめる前の初夏、祭の縁日や夜店で売っているものだった。当時はまだ田んぼや畑が広がっていた阪急沿線の園田や武庫之荘といった北部に行けば、螢もかぶと虫もいたと思うが、尼崎南部あたりでは、夏の初めの風物詩としてほんの一時期夜店などで売られ、大人たちが「ほう!」と目を留め、しばし昔を懐かしんだり、遠く離れた田舎を思いやったり、涼やかで情緒豊かなものとして、一夜愛でられるものだったのである。

 そして、僕にとっては待ちに待った夏のはじまりを告げるかのように、祖父がどこからか買ってくるものだった。夜店で螢売りに出会うのはその少し後だ。僕はどちらかというと子供ながらに、ぼんやりで単純なくせにクールな振りをしていたので、あまり表情には出さなかったが、それでも螢の登場は、夏祭りや夜店やプール開きなど楽しいことだらけの、一年でいちばん好きな、弾む季節の幕開けで、思わず頬もゆるむのだった。特別どこに連れて行ってもらえるわけでもなかったが、期待だけは膨らむもので、毎年夏が来ると心密かにやたら気分は盛り上がっていたものだ。

 祖父は、螢に限らず、きりぎりすや鈴虫など、季節の昆虫は、初物を見れば必ず買ってきた。また、小さな庭に小さな池(引っ越してきたときに祖父が業者に頼んで作ったもの。熱心に手を入れていた。ときには僕も手伝ったりした)があったので、大小さまざまな錦鯉はしょっちゅう買っていたが、僕らが喜びそうなヤドカリや銭亀なんかも、透明の金魚を入れる袋に入れてよくぶら下げて帰ってきた。見つければつい買ってしまったのだろうか。そんな素振りはあまり見せなかったが、視線の先には僕らの笑顔があったかもしれない。家にはいつでも祖父が持ち帰った色々なサイズの金魚袋が取ってあった。

 螢は、どこかの水辺で機嫌よく過ごしていたところを捕獲され、祖父に買われ、スイカや入道雲よりずっと早く、僕らに本格的な夏がすぐ近くまで来ていることを知らせにやってきたのだ。


夜店の隅で商売をする、影絵のように静かな螢売り。

 虫籠ともいえないほどの、小さな螢籠(円筒形の本体にブリキの脚が付いた簡易なものが多かったが、家型、汽車型など凝ったものもありバリエーションは豊か)に3匹ほど入って100円くらい。こじんまりした台に螢籠を並べた夜店の一角は、冷やしあめや氷、綿菓子などの飲食系や輪投げや射的あるいは金魚すくいなど遊戯系の店と違って客を呼び込むこともなく、ひっそりとした独特の空間だった。螢売りのおやじ(といっても若いおじさん? 子供から見ればおじさんだけど、もしかするとおにいさんかも)は、しわがれた独特の声を出して商売をする他の店の人(プロのテキヤ)とは何となく違う感じがした。

 ときどき問われて値段や水のやり方を説明する以外は、あまり声を出さない、話もしない、だから売る気があるのかないのか、よく分からない螢売りは、夜店の途切れる仄暗い端っこのほうで、まるで影絵のように静かに螢を売っていた。おそらく明るいところでは螢の明滅がよくわからなくなってしまうから、自ら暗い場所を選んで商売していたのだろうけど。

 まだあせも防止のためのベビーパウダーやシッカロール、祖母の言う天花粉(いい名前。子供だった僕には祖母の発音は「てんかふ」と聞こえた)の匂いをさせたランニングシャツに半ズボンの僕らは、その小さな台の周りで、ちょっと遠慮しながら、螢売りが籠に霧吹きで水をやったり、大人たちが買っていったりするのを眺めはするが、けして僕や仲間たちが一人で螢を買い求めることはない。小遣いが足らなくて手が出ないからでもあるが、絶対欲しいかぶと虫やクワガタと違って、不思議な光を放つ、ただの昆虫とは思えない螢に興味津々だとしても、自分でお金を出して手に入れたいと思うほどには欲しくはないからだ。



6月になれば、待ち焦がれた虫屋のおやじとかぶと虫。

 あの頃、かぶと虫(オス)は当時の僕の恋人だった。尼崎の夏祭りの縁日や夜店では昭和37、8年頃から売っていた。当初はかぶと虫だけで、クワガタは売っていなかった。当時、町の子供に人気があったのは今と違って圧倒的にかぶと虫で、僕の場合、もしかぶと虫を売っていたら、ほかのものすべてを我慢しても買ってしまうくらいに好きだった。それは現在でも変わらず、あの昆虫とは思えないスケールと重量感、厚みのある柔らかな曲線は、どの角度から見ても美しいと思う。しかもツノも顔も目も触覚までもがチャーミングだ。重いにもかかわらず、出し入れ自在の羽で空を飛べるのも、力が強く戦闘的なのも頼もしい。今でもスーパーなどで売っているとつい見入ってしまう。子供が小さいときは、近所の雑木林(奈良の田舎に住んでいるので)へよく捕まえに行き、子供より熱中していたような気もする。

 小学校3、4年の頃、初夏になると学校の校門前に毎年同じ若いおやじが、金網を張った手作りの大きな虫籠に昆虫をいっぱい入れて売りにやって来た。この虫屋のおやじは、祭りの縁日や夜店と違ってかぶと虫だけでなくクワガタ(ミヤマかノコギリが多かった)やハンミョウ、カナブン、カミキリムシ、蝶など他の昆虫も、ついでという感じで売っていた。毎年6月に入れば「そろそろやけどなぁ」とおやじのやって来るのが待ち遠しく、下校時間が近づくと校門のあたりが気になったものだ。一匹30円くらいだったと思うが、うかうかしているとかぶと虫のオスは売切れてしまうので、おやじが来ていたら素早く行って、予約してしまわねばならない。かぶと虫がデパートのペット売り場などで販売され、ニュースになるのはもう少し後だ。


いつのまにか姿を消していた螢売り。

 僕らは夜店に行けば、とりあえず食べることと、輪投げや型抜きで、ライターやピストルなど、ちょっと不良めいた、数学年背伸びしたような怪しげな景品(なぜか魅力的)を狙うのに夢中で忙しかった。それに金魚すくいでも友達と張り合って活躍しなければならないし、夜店に行ったアリバイとしてヨーヨーや輪投げの景品くらいは持って帰らなければならない。だからいつも小遣いは足らなかった。まあ、お金がなくてもあの頃の夜店はにぎやかで、ただみんなでうろつき回っているだけで結構楽しめたのだが。

 それに、もしお金があったとしても、僕らが螢を買って帰れば、おそらく家で叱られることになったはず。それくらい螢は贅沢なものだし、小学生には分不相応で、ヨーヨーや金魚と比べると可愛げというものがない。喩えるのが難しいが、フルーツパーラーで甘くもないコーヒーを飲んでいる子供、とでもいうのだろうか。こまっしゃくれた感じがする。

 螢は命が極めて短く、僕らは夜店で売っている螢がすぐに死んでしまうことも知っていた。そういう意味でも贅沢で、一晩あるいは2、3日で居なくなってしまう、ただ光るだけが特徴の小さな昆虫は、金額だけでなく、なんだか情緒のようなものが過剰だったり儚すぎたりして、小学生の手に負えるものでもなかった。第一、長く生きないせいもあるが、螢は印象が強烈で存在感はあるものの、昆虫、生き物としての実態が希薄で、所有している実感を持ちにくい。かぶと虫やクワガタのような、昆虫を飼っているという確かな感触がなさ過ぎるのだ。蝉やとんぼ(ギンヤンマは別格)もまた寿命の短い昆虫ではあるが、捕まえて飼った、飼っていたという充足感は味わえた。

 僕は(みんなもそうだろうが)すぐに死んでしまう虫や生き物は嫌いだった。子供の頃、飼っている昆虫や小動物は生きているときにだけ価値があった。だから夏休みの宿題の自由課題で、みんながよくやっていた昆虫の標本作りもしたことがない。死んでしまった昆虫や小動物は、死んだ瞬間から価値がなくなるだけでなく、気持ち悪くて怖いものに変質する。実際、死んでしまったかぶと虫やハツカネズミ、ヒヨコなどに触れるのは不気味で怖かったものだ。生きていたときと同じように触わることはできなかった。

 だけど大人たちの心の中にある郷愁や情緒をかきたてたのだろう、物珍しさもあったのかもしれない、夜店の螢はよく売れていた。売れると螢売りは「螢は水を飲みますから中の草が乾かないように霧吹きでこまめに吹きかけてやってください」などと、たどたどしく説明したりしていた。

 僕らは珍しい螢売りを観察してとりあえず満足すると、退屈しだした弟や友達に(僕はずっと螢売りを観察していても飽きることはないのだが)誘われるようにして夜店の雑踏へわずかなお金を遣いに繰り出す。輪投げや射的を眺めたり、金魚をすくったり東京コロッケやミルクせんべいを食べたりして、さほど距離のない夜店の端から端までを何度も往復する。ひとしきりウロウロしてふと気が付くと螢売りはいつのまにか店ごと姿を消している。みんな売れてしまったのだろう。螢売りがいなくなると、その場所が急に暗さを増したようで、何となく寂しいような、残念なような気持ちがしたものだ。いつあらわれて、いついなくなるのか、また、今度はいつやってくるのか、もう来ないのか、よくわからない不思議な店でもあった。



螢と螢籠の匂い。

 前にも述べたように、子供のように生き物を飼うことの好きな祖父(我が家の他の大人たちは、祖父以外誰も生き物に興味を持っていなかった。普通の大人は概ねそうで、父も例外ではなく、かぶと虫やクワガタもカナブン程度にしか思っていなかったように思う)は、毎年どこで見つけたものか螢を買ってきた。祖父は午後3時に銭湯へ行ってからは外出しないので、夜店ではなく、鳥屋のような、今でいうペットショップで手に入れてきたのだろう。あるいは商店街の出店で見つけたのかもしれない。

 祖父は霧吹きではなく、口に水を含ませて器用に霧状に水を出し螢籠に吹きかけていた。そのしぐさも技術も僕には驚きで興味深く、いつも見るのが楽しみだった(僕が真似をすると水は霧状にならなかった)。螢の餌は水だけということだったが、一日中貪欲にスイカにかじりついて果汁を吸っているかぶと虫なんかに比べるとなんだか頼りない感じがしたものだ。それに螢は、甲虫の仲間にしては全身が柔らかく、丁寧に扱わないとつぶしたり傷つけたりしてしまいそうで、指で触れるのが怖かった。

 螢は一夜、光を放って僕らを楽しませてくれるが、その翌日には大体死んでしまう。昆虫、特に甲虫にはそれぞれ匂いがあって、螢はその小さな体長のわりに匂いが強かった。焦げた草のような、漢方薬のような、とでもいうのだろうか、昆虫というよりは植物に近かったような気がするが、その匂いの余韻は生き物のものだった。死んでしまった後、死骸を捨てても、螢籠からは、その匂いがなんとなく漂っていた。空になった螢籠は、その夏の間中、ポツンと縁側の鳥篭の横なんかにあって、さぼっていた夏休みの宿題に血相を変える頃になっても、まだ初夏の佇まいを残していた。ふと気が付いて手に取り、螢の匂いが消えていることに気付いたりするのもその頃だ。

 骨董市には季節を問わずそんな螢籠がときどきあらわれる。小さいものだけれど、遠くからでも「あれは螢籠だな」と何となく気が付く。デッドストックが多いのだろうけれど、螢籠を見つけると、知らず知らずのうちに近づき、手に取って籠の中を見てしまう。場合によっては顔に寄せ匂いを嗅いでいることもある。螢の匂いがするはずはないのだが、螢籠を手にした瞬間なんかに、かすかに生臭いような、ふとその匂いが脳裏に甦ってくることがある。

 十代の後半は夜店とも螢とも無縁だった。二十代になってはじめて群生する螢を見て夢見心地になったことがあるし、15年程前には近所に子供を連れて螢を捕りに行ったこともある。現在でも、各地域で開催される自然教室などでの螢観察会の情報を見れば「一度ゆっくり参加したいものだな」と興味をそそられたりもする。けれど、それらはあの頃の螢とは別のものだ。僕にとっての螢は、いつまでたっても祖父の買ってきた螢籠の中にいた螢であり、夜店にやって来た影絵のような螢売りであり、彼等が売っていた螢なのだ。

その13
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