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その12 昭和30年代の「お正月」

きみからの年賀状は
新しい年への切符のようさ

校舎を越え、踏切を渡り
その角を曲がって――キンガ・シンネン
ボクの元旦はやって来る

きょうも、きみはいつもの笑顔で
お節を食べているだろうか
それとも世界童話全集なんかを
読んでいるのだろうか

見知らぬ町から阪神バスに乗って
きみはいつも颯爽と校庭に現われたね
誰も知らないだろうけれど
ボクは相撲やドッヂボールなんかをしながら
その瞬間を待っていたりしたのさ

いつからか、その銀色のバスから
きみは降りて来なくなって
このごろ、もう思い出さない日もあるけど

誘いに行くよ今夜
子猫のように一緒に駄菓子屋へ忍び込もう
羽子板や双六、日光写真の上で一緒に眠ろう




“素適”に待ち遠しかった
昭和30年代の「お正月」。


 ある日、学校から帰ると玄関脇のテレビのある部屋にやぐら炬燵が出ている。まだ電気も入っていない(当時はまだ「赤外線」ではなく、付けても赤く点灯せず暗いままだった。つい2、3年前までは炭を使った掘り炬燵だった)のに炬燵布団をめくって中に足を入れたり、身体をすっぽり隠してみたり。先の冬の、炬燵をめぐる情景が思い出されたりもして、部屋が一気に暖かくなったようで、お気に入りの空間がいっそう好ましく思えてくる。

 子どもの頃、昭和38、39年の冬支度はいつもそんな感じで始まって、ついさっきまで遠景にあった「お正月」が、すぐそこに近付いていることを知らせてくれる。しかもその前にクリスマスが控え、冬休みもセットになっている、というのだから豪勢だ。別にクリスマスに何かが起きるわけでも、特別なプレゼントをもらえたわけでもなく、ツリーはもちろんクリスマスケーキすらなく(祖父母と暮らす僕の家ではごく普通の冬の一日)、冬休みには通信簿という憂鬱なものもくっついていたのだけれど、とにかく気分は上々、なのだ。

 歳末の街や商店街が日に日に賑わいを増すようなのも、ただ単純に嬉しかった。商店街の入口の出店でクリスマスツリーのオーナメントを売っていたり、アーケードの拡声器からは「赤鼻のトナカイ」が流れてきたり、ガラガラ抽選会のざわめきが聞えてきたり、映画館や銭湯だけでなく、当時いろんなところに貼られていた映画のポスターが、青春ものやディズニー、東宝怪獣祭りなど恒例のお正月興行作品に次々と変わっていったり……。

 少年誌や学習誌もクリスマスの話題やお正月特集でいろいろと煽り立てるし、僕らはすっかりその気になって盛り上がっていたけれど、購買意欲にあふれた大人達も含めて街全体がクリスマス経由でお正月に向かって邁進し、いたるところで熱気のようなものが溢れていて、誰もが素朴に高揚していた気がする(もちろん大人たちはそれぞれに必死で、年末ゆえの金策などであくせくしていたに違いないが)。

 そんなムードの中、ふと気が付くと「もういくつ寝るとお正月」というメロディが、ずっと耳の奥で鳴り響いているような、スキップでもしたくなるような浮かれた気分で、教室にいても、書道塾にいても気もそぞろでぼんやりしてしまうのだった。朝礼で澄ましていても、ふと笑みがこぼれたりなどして。

 昭和30年代に僕らに訪れたお正月は、ただただ待ち遠しい、圧倒的に素適に楽しいものだったのである。だけど一体全体、何がそんなに素適に楽しかったのだろう、ね?





元旦は、靴下から上着まで
すべてがまっさらになって、生まれ変わった気分。。


 僕の家では、元旦の朝は、シャツやパンツ、パッチなどの肌着をはじめ靴下、セーター、ズボン、ジャンパー(上着)と、すべてまっさらなものを身に着ける慣わしだ。ときには手袋やマフラー、ベルト(祖母は帯革と呼んでいたが)靴などの履物に至るまで新しくなる。

 大きすぎたり、肌にちくちくしたり、弟のものがうらやましかったり、と、細かいところでは文句を言っていたこともあったけれど、概ね満足で、安物であれ少々サイズ違いであれ、祖母が揃えてくれた真新しい衣類をまとえば、すっかり改まった気分に満たされる。

 祖父も祖母もどことなく違った雰囲気で、部屋の空気も心地よく張り詰めている。歯ブラシもタオルも新しく、とにかくすべて昨日とは違うような気がして、この日ばかりは少しばかり気温が低くても、ちっとも寒さを感じない。祖父の筆文字で各自に名前の書かれた祝い箸で早速に雑煮を食べて、そそくさとおせちをつつくと、祖父からお年玉をもらい金額を確かめる。

 「まだかな?」と待ちぼうけを喰わされた記憶はないから、もしかするとお膳に着く前にもらっていたかもしれない。日頃気難しい祖父(いつも書いているような気もするが、明治の男である祖父はめったなことでは笑わないし、必要なこと以外は喋らない。この頃は声を出して笑ったのを聞いたことがない)も、商売をやっていただけにその辺りは承知で、朝、早々にお年玉をくれたのだろう。

 小学3、4年生の頃は、百円札2、3枚か五百円札だった。ポチ袋に入った、丁寧に折り畳まれた真新しいお札を手にするのは大いなる喜びで、その額も普段の小遣いとは桁外れに大きく、気分も大きく膨らむのだった。

 親戚の伯父、ずっと年の離れた従兄などからは百円から数百円とまちまちで、他の場所で暮らしていて気前のよかった父は、輝きも迫力もある千円札(当時は聖徳太子)だったような気もするが、それは数年あとのことで、まだ百円札か五百円札だったかも知れない。いずれにせよ当時、僕が一年で一番お金持ちになれた瞬間ではある。

 だけど、元旦の朝はまだ祖父にもらったお年玉だけが僕の全財産で、それで何をするかというと、まず朝から開けている近所の駄菓子屋に行って、いつもよりはちょっとだけたくさんお金を遣ってみるのである。手はじめに30円〜50円程度の銀玉鉄砲など、普段から欲しかった駄菓子屋の高額商品を買う。そのついでに、お正月の定番である安物のカルタや凧を買ってみたり、いつものようになんとなくクジをしてみたり、この日ばかりはあれこれ迷わずに気前よく散在するのだ。といっても全部で百円にも満たない金額であったと思うが、普段は決してできない豪遊なのである。

 何度か駄菓子屋に行ったり、駄菓子屋で買ってきたもので遊んだり、食べたりしているうちに、父をはじめ親戚の伯父や従兄たちがやってきて、お年玉は着々と増えていく。増えても全部使えるわけではなく、またいきなり大きく使ってしまう思い切りの良さも大胆さも持ち合わせていないので、その大半は「十日えびす」(戎神社の祭。西宮と大阪の今宮が有名だが尼崎にも「尼崎えびす神社」がある。1月10日)の頃には祖母に預けることになる。

 結局、自由になるのは数百円なのだが、それでも十分で、午後からは、それをポケットに入れて、一人で我らの貴布禰神社に初詣に出かける。それが元旦の僕のメインイベントなのだ。初詣といっても、神社に参拝するわけではなく、縁日を覗きに行くだけなのだけれど。




お年玉をポケットに
初詣の縁日で半日過ごす。


 貴布禰神社は、以前にも書いたが、夏にはだんじりがでることでも知られ、地域では有名な神社で、この頃の僕にとって極めて重要な空間でもあった。近所にいくつか神社はあったものの、お正月に縁日の出るのはここだけだった。
さすがに夏祭りほどではないが、縁日も沿道から境内へと続いていて賑やかだった。あの頃、お正月の縁日でしか見られない珍しい店があったりして、また、お年玉という軍資金もあるので、とくかく早く行きたくてたまらない。

 お正月だけの珍しい店というと、砂絵やあめ細工などがその代表で、描いたり作ったりしているのを見るのが面白く、ひとしきり店のオヤジの手順を眺めては境内を一周し、輪投げや射的、スマートボールといった縁日定番のゲーム性というのか賭博じみたものに手を出したりしながら、またそこへ帰ってきては眺めるということを繰り返して、数時間かけてようやく一つ買ったりする。

 砂絵は、紙に粘着性のある水をつけた筆で線を引いたり塗ったりして、そこに色の付いた砂をさっとまぶして絵にしていくもので、富士山の日の出などの絵を描いてみせて、その道具を売る、というものであるのだけれど、売っているおじさんの描いていく様が手馴れていて鮮やかで、見ているだけで楽しめた。おじさんの流れるような手際を見ていると、とても簡単に思え、眺めていると自分でも同じことができるような気分にさせられる。

 基本的なセットと、特別な色砂は別売りで、縁日にしては高価なものだった印象がある。「あんな風に描けるなら」と、思い切って買ってみたことがある。だけど図画・工作の時間は熱意もなく適当で、もともと根本的に絵心がないのだし、しかも砂絵のほうが水彩画などよりもずっと手順が多く難しいわけで、売り手のオヤジのように上手に描けるはずもなく、何を描き、どんな感じにできたのか、まったく憶えていない。満足した記憶はないから、いたずら書き程度のものしかできなかったのだろう。この砂絵は、その後、いろんな縁日をウロウロしたが、なぜか他のどこでも見かけたことはない。

 あめ細工は、今では伝統工芸のようにテレビなどで紹介されることもあるが、当時でもそれほどよく見かけたものではなく、既に珍しいものだった。熱したあめを素材に、主に動物を作っていくもので、柔らかなあめを丸めて筒状になった棒の先に差し、胴体部分は筒の先から風船のように空気を入れて膨らまし、小さな握りバサミで切り口を入れながらゴムのように伸ばして手や足、尾などを整えていく。形ができれば目や口に赤や緑の食紅を素早く塗って出来上がる。

 これもまた、砂絵同様たいへん手際のいい作業で、次から次と違う動物が出来上がっていくので、いつまで見ても飽きることがない。ただ、風船のように口で空気を入れて膨らましたもの(動物の胴体部分はたいてい膨らませて作る)を食べるのは、子供ながらもちょっと不衛生な気はした。とはいえ実際に買って手にすれば子供だからそんなことは忘れてしまうもので、食べてみると案外甘く、薄い胴体などは硬質な感じでパリッとして美味しかった。

 これは正月だけではないが、自動作画器(自分で勝手に名づけた仮の名称)というようなものもあった。商品そのものは木製の非常に地味なもので、その店には、見事なまでに上手く描けた肖像画(スポーツ選手や歌手などの有名人が中心)が目立つようにディスプレイしてあって、嫌でも目を惹く。そんな絵を背景に、おじさんが作画器を使って手元に置いたスターのブロマイドをモデルに似顔絵を描いていることが多かった。

 写真や絵画などの線をなぞると、なぞっているところと同時に平行に動く部分に鉛筆を装着してあるので、なぞったものと全く同じ絵が描けるというものだった。模写された絵がたくさん陳列されていたが、いずれも達者な絵で「こんな絵が描けたらいいなあ」と思わせる出来栄えだった。が、そのサンプル画につられて実際に自分で操作してみると、砂絵と同じでそんなに上手くなぞれない。なぞるにも少しばかりの技術と根気が必要だったのだろうけれど。

 あれやこれやと境内をうろうろしているうちに、元旦の貴布禰神社の日は暮れる。縁日は三ヶ日出ているので、また来ることはできるのだけれど、店は三日間変わることはないので、初日のような「どんなものが出ているのかな?」という期待感はもう味わえない。

 その代わり、優柔不断で決断力不足なので、家に帰ってから「やっぱりあれを買おうかな」と購買意欲が高まることもあって、そんな気持ちを満たしに再び行ってみたりして、貴布禰さんはしょっちゅう往復していたような気がする。

 貴布禰さんだけでなく、お正月は僕は僕なりに慌ただしく、実際のところ落ち着いて遊んでいる暇もない。二日や三日にやって来た親戚からお年玉をもらったり、従兄たちと遊んだり、駄菓子屋でこまごまと散在しているうちに、楽しみだった「お正月」も、いつの間にか終わりに近付いていることに気付かされたりすることになる。実際には、お年玉もまだ十分残っているし、冬休みの間は十分お正月気分ではあるのだけれど……。




そしてなんとなく
「お正月」は終わる。


 当時のテレビドラマや漫画の主人公たちが遊んでいたように、お正月だからといって福笑いや双六、カルタや百人一首、凧揚げやコマ回しに熱中したこともないし、ましてや羽子板などには触ったこともない。少年漫画などで、日頃ライバル関係のガールフレンドと羽根付きをして、コテンパンに負けて顔に墨を塗られるという、何となくほのぼのとしたお正月のワンシーンは、毎年繰り返し読まされたような気がするが、実際に体験したことはないし、近所で見たことも友達がやったという話も聞いたこともない。

 けれど骨董市などで、当時の双六やカルタ、羽子板など、当時の駄菓子屋で売っていた駄玩具類を見つけると、それはそれで懐かしく、手頃な値段であれば何も考えずについ買ってみたりする。これらの正月ものは数が出るので作る側も力を入れたのだろうか、質感も色彩も独特で、当時を象徴するような魅力的なものが多い。

 現在、骨董市のような、常店ではない、何があるかわからない「お祭り」空間にひどく惹かれるのも、子供の頃の縁日で至福の時間を過ごしてきたことと無関係ではないのだろう。

 さて、当時の僕のお正月であるが、年末に胸躍らせながら見た怪獣映画やディズニー映画のポスターではあるが、実際に映画館で観ることはない(誰も連れて行ってくれないし、一人では行かせてもらえない)し、「お正月」の歌に出てくるような伝統的な遊びもあまりしなかった。冬休みに入って年末、正月と毎日楽しくバタバタ慌しかったけれど、なんだかぼんやりしていた、というとりとめのない感じのまま、もうすぐそこに3学期が来ていたりするのである。

 結局、正月が終わって、手元には、砂絵の残骸、衝動買いした安物のカルタ、輪投げの景品、100円程度のプラモデル、お金を貯めるために買った陶器製の貯金箱、安物の銀玉鉄砲(だけどお気に入り)などが残っただけではあるのだけれど、それでも、炬燵に入って、お年玉で手に入れたそれらのものを眺めながら「楽しかったなー」などと結構満足したりしているのだった。



その13
「ベッタン」(めんこ)で、
少年を磨く。

その12
昭和30年代の「お正月」

その11
少女は、ミツワ石鹸の香り

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