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その7 祖父の、肥後守

競馬チックと丹頂ポマードの香り比べ
濃厚な珈琲、両切りピースに
藤澤の樟脳なんかが溶けあったような祖父の匂い
それに祖母の鬢付け油が加われば、ボクの我が家だ

祖父は鏡が好きで
照れも衒いもなく専用の小さな鏡台の前にすわって
黒くなった鉄櫛を火鉢で焼いて、髪にウエーブを付けたり
毛を抜いたり、クリームを塗ったり
ボクや弟に、鼻の油をチョイと付けてみたり

九官鳥やカナリア、手乗り文鳥、きりぎりす
目白、シマリス、金かぶと、銭亀などを
次から次と買ってきてご満悦
油断していると、突然ダックスフントを連れ帰る
あるいは、電池で動く豪華なおもちゃを買ってくる
麦藁帽子をしっかりとゴムで留め、祖母手製の網を持って
近くの川へメダカを掬いに行ったりもする
誰もが近寄りがたい、痩身白髪の明治男なのだ

何があっても毎日午後3時になると
専用のアルマイトの桶をぶら下げて銭湯へと出かけ
いつも同じスタイル、スピード、姿勢、表情で
道でボク等と出会ってもニコリともせず
澄ましてクールに、知らん顔だ
だけど、昭和30年代半ばを寡黙に我が儘に生きる
明治の男というのはどんな気分だったんだろう

そんな祖父の小さな鏡台に
耳掻きや鼈甲眼鏡に混じって、鈍色に光る小粋な肥後守
ずっと気にはなっていたんだが
密かに半ズボンのポケットに入れたときから
なんだかボクはコドモじゃなくなったのさ

書道教室の月謝を丸々くすねて乗ったよ土曜の午後の阪神電車
今日は西へ、出屋敷、武庫川、鳴尾、甲子園・阪神パーク
今度は東へ、大物、杭瀬、千船、野田、福島、世界の終点・阪神梅田駅
阪神百貨店の屋上で、一舟30円の焼きソバを食べながら
濃厚なソース味の孤独を噛み締めてもみたりもした

あの頃、ボクのココロはどこにあったのだろう
まだこんもりと雑木林があった阪神尼崎駅
そこから西へ真っ直ぐ走っている中央商店街
交差する三和本通りのおもちゃ専門店「西田屋」あたり
それとも押入れの襖絵の糸蜻蛉
となりで眠る弟の粉ミルクの匂い

もしかすると、ポケットの肥後守
その冷たい金属の鞘の中
我が家の秘密がそっくりしまいこまれているような
押入れの中の小引き出し
さらにその向こうから聞こえてくる
ボクを小さく呼ぶ祖母の声?
いずれにしても
まだそれほど遠くへは行ってなかったわけだ

何かを作ったわけでもない
何かを切ったわけでもない
ただ机や柱をキズつけただけなのに
手にもココロにも
何かが切れた、かのような
確かな感触だけがある
祖父の、肥後守


骨董市には僕自身が忘れていた昭和30年代の僕がいる。

 骨董市で引き出しをそのままひっくり返したような、ちょっと古びた雑多な小物が大量に売られていることがある。何気なくダンボールに入っていたり、ビニールシートの上に転がっていたり。いわゆるガラクタだけれど、レトロな質感や生活感のようなものが色濃く残っていて、いずれにしても素通りはできない。
特に昭和30年代を中心に、昭和20年〜40年くらいにかけてのものや、その時代の色や匂いが濃厚なヤマでは(いい感じにくすんだような色調やレトロな雰囲気で遠くからでもわかることが多い)だいたい座り込んでじっくりと宝探しをしてしまうことになる。

「そうや、こんなんあったなぁ、忘れとったわ!」
と、ガラクタの海の中で何度つぶやいたことだろう。
 子供の文具や駄玩具、大人の小道具類や紙ものなど、実にさまざまなものがいろんな状態で出てくるが、ほんとうに懐かしいものが発見できるのはこんなときだ。すっかり僕の記憶から消え落ちていた、ウィンナーチョコの包み紙や高岡のチューブチョコレートなどに出会ったのもこんなヤマだった。
 松本清張の「火の記憶」ではないが、自分自身で驚くような記憶が喚起される可能性だってあるだろう。実際、子供の頃のことをよく憶えているつもりでも、じっくり検証してみれば完全に忘れてしまっていることも多い。ガラクタのヤマはそんなことに気付かせてくれたりもする。

 記憶のカタチも多様だが、いずれにせよ混沌としてファジー(へんに懐かしい)なもので、あくまで本人だけの思い込みだから、意図していないにも関わらず自分自身で何らかの創作や抹消、書き換えが行なわれている可能性がある。発見された昭和30年代グッズには創作も抹消も、ましてや書き換えなどはありえないわけで、そこには事実だけしか存在しない。それはぼんやりしていた対象に鮮明にピントが合う感じで、明快で気持ちのいいものだ。あやふやな記憶を鮮やかに解き明かしてくれる場合もあるし、欠落していた記憶の部分にパズルがはまるように甦ることもある。

 ガラスの動物、古い名刺、ドロップの缶、マッチ箱、ビー玉、記念コイン、阪神電車や国鉄の切符、サイコロ、ボンナイフ、地球鉛筆、おはじき、古銭、ケンコーの軟式ボール、めんこ、小さな鉛筆削り、古い電池、薬壜、繰り出し式シャープペン、べったん、ハーモニカ、ベーゴマ、インク壜、栓抜き、ブロマイド、少年雑誌の附録、計算尺、オカリナ、グリコのおまけ、級長や学級委員のバッジ、絵はがき、牛乳のフタ、肥後守、作りかけのプラモデルなど、羅列すればきりがないが、そんなゴミともお宝ともつかぬものがぶちまけたようにそこにあって、散逸させるのが惜しいような気もして「これ全部やったらなんぼ?」と聞いてみたくなるときもある。そんなお金も置く場所もないのだけれど。



「誰かのゴミは私の宝」。胸躍る未整理の荷物。

 基本的にはすべて持ち主が「」と判断したものなので、売り主からガラクタ扱いされていることが多く、誰もがびっくりするような逸品はないのだが、骨董収集やレトログッズ集めなどコレクターの世界には「あなたのゴミは私の宝」という言葉があるように、そんな中に長年探していたものが見つかったりすることもあるし、意外な掘り出しものに遭遇することもある。

 めったに出会うことのないお菓子のパッケージや古い映画の半券、浜寺の海水浴場や遊園地のチケット、戦前の電気科学館・プラネタリウムのパンフレット、あるいは著名な作家の名刺など、予想もしていなかった珍しいものに出会うこともある。自分が駄菓子屋で買っていた頃の安物のガムやキャラメルのパッケージなど、普通、安価な駄菓子類の包み紙のような、まず捨ててしまうようなものはなかなか出てくることはないが、ときにはそれらのものが大量にでてきたりもするから露店の市は侮れないのだ。

 特に魅力的なのは、初だし業者さんが引き上げてきた状態のまま、整理も何もされていない荷物だ。大小さまざまなものがひっくり返り折り重なり合って、何があるのか売っている本人もよく分かっていないような玉石混交状態(ほとんどは石だけれど)のときは、「もしかすると何かとんでもないものがあるんじゃないか?」と期待はふくらむ。一つひとつ手に取りながらひっくり返したり除けたり、袋から出したり、箱を開けたり、手を真っ黒にしながら少しばかり胸を高鳴らせて目当てのものを探し出す作業は、子供の頃の昆虫採集にも似て楽しいものだ。特に目当てのものを一つでも見つけたりすると、勢いは増す。

 けれど何かありそうなガラクタの山には、当然ながら多くの人を惹きつける力があるわけで、いかにヤマを早く発見しようとも、すぐにライバルたちが集まってくる。それに、人がたくさんいるところには「何かあるな」と集客力も加速する。だから、願わくは、みんなが気付かないうちに素早く宝探しを終えること。かぶと虫捕りと同じように俊敏さや要領のよさが必要だ。運のようなものもいるだろう。タッチの差で大物を逃すこともあるし、その逆もある。同じヤマの付近にいる人の動向や手に持っているものが気になるのはいずれのコレクターも同じ。なかには目を血走らせた人もいる。

 年配の人が手紙の束や切符を丹念に見ていたり、若い女の子が絵はがきを探していたり、壊れたような駄玩具や古めかしいこけし、民芸品など小さなおみやげ品をいい年をしたおじさん(僕のような)が漁っていたり。たとえ相手が可愛い女の子であろうと子供であろうとライバルと目さなければならない。何を思ったか小さな子供が珍しいべったん(めんこ)や力道山グッズを手にしていることもあるので油断はできない。

   目ぼしいものを探し終えたら値段の確認と交渉だ。まとめて買えば一点一点は割安になるかも知れないが、実はいらないものまで買っている可能性も高い(よくあることです)。冷静に欲しいものだけを、想定した価格で買えるようになったら、もう相当なものを収集しているだろう。

 とはいえ、「買っても買わなくてもどっちでもいいんだけど」というときは、冷静でいられるので比較的上手く購入できるが、「これは絶対逃してはいけない」という半ば興奮状態のときは、あとで「もう少し上手く交渉できたのでは?」と反省することも多い。

 もし値段が合わなくても手から離してはいけない。ライバルたちは、こちらの動向を何気なく観察している。手から離した瞬間、所有権? を放棄したとみなされ、別の誰かが手にすれば、それは二度と戻ってはこない。次にそれと出会えるまで、出会えるとしてだけど、長く辛い後悔と付き合わねばならない(もう一生邂逅できないこともあるわけで)。手に持ったまま店主に嫌がられない程度にスマートに、しかも根気よく交渉するのがセオリーだ。

 子供の頃に憧れたナショナルキッドのバッジや学年誌の附録の日光写真、一部のゲルマニウムラジオやトランジスタ・ラジオ、電気シェーバーなどなど、僕が現在持っている多くのお気に入り昭和30年グッズはみんなそうして発見・購入したものだ。売っているほうはガラクタ扱いだから比較的安い値段で購入できる(ときには例外もあるが)。ボンナイフや肥後守も、そんな昭和の引き出し風ガラクタのヤマから出てくることが多い。


肥後守は100〜300円くらいで手に入る。

 肥後守は、どこで見つけても比較的安く手に入れることができる。集めている人も少ないのか、遅い時間に骨董市などで見つけても残っているし、安いこともあるので、つい買ってしまうものの一つだ。

 肥後守は、鉛筆を削る道具として使われていたので刃物とはいえ文房具に近いものではあるが、僕が小学生の頃は、既に学校には持って行ってはいけないものだった。だから肥後守よりさらに簡易で安全とされていたボンナイフ(現在のカッターナイフのようなものだろうか。いずれにしてもモノを切ったり削ったりするものなので使い方によっては危険を伴う。もしかすると肥後守より危険かもしれない。僕らの通っている学校で事故や問題が起こったことはないが)やそれに類したものを筆箱に入れているクラスメートはいた。

 僕はあまり手先が器用な方ではなく、鉛筆も金属製の削り器があったので、ナイフで上手く削れない。工作や割り箸で作るピストルなども下手くそである。だけど、上手く使いこなせなくても金属製のナイフである肥後守には何か特別な魅力を感じていたように思う。下手くそながら鉛筆を削ってみたのも、プラモデルの余計な部分をカットしていて誤って指を深く切ってしまったのも肥後守だった。

 これまでにたくさん見てきたので、いまではもうそれほど感じなくなっているが、最初に露店で肥後守を発見したときはやはり嬉しかったのだと思う。違う形のものを見つける度に買っているし、つい買ってしまう。持っているものを探してみると、まるで手造りのように素朴な登録商標肥後守、しっかりしたいい風合いの肥後常盛、大きなサイズの肥後ノ王様、小さな肥後守別製、ノコギリの付属した肥後千代田丸、番外編では少年ナイフ(少し以前のバンドの名前みたいだけど)など、さまざまなものがある。もっと買ったようにも思うが、こうして家中のものを集めてみると案外少なかった。

 いずれも100円〜300円くらいで手に入れたものだ。ほかの何かと一緒にまとめて買ったケースもあるだろう。横に写っているボンナイフは京都の古い文具店で買ったもの。肥後守も文具店のデッドストックを探す方法もある。
 いまも製造しているメーカーがあるが、いずれも昔と違って質もいいのかちょっと高価だ。僕らが手にしていた昭和30年後半の肥後守は20〜30円くらいだったのではないか。近所の文房具屋や金物屋で手軽に買えた。



祖父の肥後守は、ミナミの竹林寺で。

 祖父が持っていた肥後守は、もちろんいまはもうないが、僕が現在持っているものより古びた味わいのあるものだったように思う。かつて大正の頃、大阪ミナミの竹林寺(いまもある)あたりの出店で肥後守を売っていたらしいので、祖父が好きだった寄席帰りにでも買ったものではないか、と勝手に空想している。

 尼崎生まれの祖父は、かの横山エンタツを、「近所の医者の息子やった」と言い、10代の頃に庭球(テニス)をしたことがあって、顔見知りだと言っていた。後年、寄席に入るとエンタツが舞台に出てきて(アチャコとの漫才かエノスケだったかは聞き漏らした)祖父の方をチラチラ気にしていたそうである。

 そんな大正や昭和の初めのミナミ界隈や新町で遊んでいた祖父のことだから、竹林寺あたりで買ったのであればいいのに、と僕が都合よく思い描いているだけではあるが。

 僕も肥後守で鉛筆が満足に削れないくらい不器用だが、祖父も器用な人ではなかった。電球も替えたことがないのではないか。父もそうだった(ドライバーすら手にしたことはないはず)。祖父は庭(前栽といっていた)いじりは好きで箱庭状のジオラマは丁寧に作っていたが、木などを使った工作めいたことをしているのは見たことがないし、作ったものも見たことがない。

 あの肥後守で、祖父は何かこしらえたことがあるのだろうか。多分、だけれど、ほとんど使ったことすらないのではないか。僕が肥後守を、ただポケットに入れていただけだったように。おそらく僕があちこちの骨董市や露店で肥後守に惹かれ買ってしまうのは、無意識のうちに、あの鈍色した祖父の肥後守を探し続けているからだと思う。

その13
「ベッタン」(めんこ)で、
少年を磨く。

その12
昭和30年代の「お正月」

その11
少女は、ミツワ石鹸の香り

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