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その6 銀玉鉄砲で、グッドバイ

どこへ行ったのだろう
きみも、ボクの黄金色した銀玉鉄砲も
気が付いたときには、どちらの手がかりもなかったのだ

きみは鳥のような高く美しい声で
歌でも唄うようにボクを非難し
さっそうと遠くへ転校していったけれど
その実在は、ボク以外に誰が記録しているのだろう

丸みを帯びたフォルム
ゴールドの銃身
グリップの感触
引き金の弾力
理由は知らない
ある日きみは父親を亡くしたのだ

銀玉鉄砲、撃ったことがあるかい?
触ったこともないのかな
最新連発式セキデン・マジックコルト MCA300
ほら軽いだろ、プラスチック製さ
撃たせてやるよ、5円一箱50発、お安いものさ

銀玉をたっぷり装填したら
さあ、誰から狙ってみる?
腕を伸ばして人差し指に力を入れるだけさ
きみの小さな細い指で引き金を引けば
路地にこだまするよ、高性能バネの虚ろな響き

もうワケがわからないくらい撃つとね、指が痛くなるんだ
ほら、ここのところ硬くなっているのは
ちょっといかしたピストルダコさ
そのうちきみにもできるといいね

それからのボクは有頂天で銀玉鉄砲をクルクル回したり
意味もなく空撃ちしたりして
きみの声の余韻としぐさの残像に
ボクへの好意のようなものはないかと
繰り返し探してみたけれど
結局のところ
落ちた銀玉を見つけるようなわけにはいかなかったのさ

あの頃、広い校庭を渡って給食の匂いがやってきたように、ときどき時間と空間のあわいを縫うようにして風に乗って運ばれてくるよ、きみやきみにまつわる断片のようなものが。強い視線。静かな笑顔。細い線。きみより背の高い妹がいたね。寒かった音楽室の、ベートーベンとフォスター。フォスターの晩年の荒れた暮らしぶりや悲惨な最後に、ひどく惹かれたのはなぜだろう。大流行したスカートめくり。きみの一張羅の赤いチェックのスカート。その中をそれほど見たかったわけじゃないのさ、心身ともに子供だったからね。そんなことなんかに深い関心を抱くのはずっと後のことだよ。それが果たして史実としての記憶なのかどうか、もうボクにはよくわからないけど。2度と観ることができない映画のようで確かめようもないわけだ。なにしろずいぶん時間が過ぎたはずだから。もうみんな忘れてしまってもいいくらいに、さ。

だけどそうでもないのかな? ときおり、頬をなでる風に誘われるようにして、遠くの情景があふれでてくるのは、忘れ去られるのを嫌がっているのかもしれないね。記憶にも意志や生命めいたものがある、というのはほんとうさ。子どもの頃に観た映画やテレビドラマ、記録なんかをもう一度観てみたくなることがあるだろう? そんなモノクロームの映像を観るように、自分のなかを過ぎていった時間を、銀玉鉄砲なんかをきっかけに心に甦らせていると、その質量を一人では支えきれないような気がすることがあるよ。すべて自分自身のもののはずなのに。日常にはときおり不思議な風の舞うこともある。月の引力の仕業さ。あのとききみは「大きくなったね」と、久しぶりに会った親戚のおばさんのようなことを相変わらずの高い声で言い放ち、これも小学生時代のままの強い視線でボクを見上げていたけど。運がよければ、いくら稀少でも銀玉鉄砲マジックコルト MCA300は当時のままの状態で見つけることができるけれど、ボクらは、駄菓子屋のデッドストックのようにはいかない。

お気に入りの銀玉鉄砲
最新連発式マジックコルト MCA300を持っていたのはボクだけさ
お年玉で張り切って50円で買ったものだよ
きみはあの駄菓子屋で何か買ったことがあるかい?
おばさんの手のひらに汗ばんだ10円玉を乗せたりしたことが

では、さようなら
銀玉鉄砲、黄金色の輝き
おかっぱの、きみ


銀玉鉄砲を手に入れる方法。その入手経路と価格。

SEKIDEN(セキデン)マジックコルト MCA300&
オートマチックSAP50(昭和38年〜39年頃)


 あの頃、僕はいつも小さな失望を積み重ねていた。予告ほどには豪華ではなかった少年誌の附録に、お気に入りの漫画の唐突な連載中止に、すぐに壊れてしまう駄菓子屋の駄玩具に、2、3度ザリガニをすくっただけで破れてしまった捕虫網に、箱を開けると出てきた女の子向けのグリコのおまけに、死んでしまったかぶと虫に、そして自分自身のベッタンやビー玉の実力のなさに。数え上げれば切りがないが、毎日は概ね何事もなく楽しく過ぎていったとしても、気分としていちばん味わったのがささやかな失望、ではないだろうか。いろいろな楽しいことや嬉しいことの影法師のように、失望はすぐそばにいた。楽しさや嬉しさのカタチは多様だが、失望はどれもこれもよく似ている。

 特に手に入れたものには、あとあとがっかりさせられることも多い。オモチャは壊れ、紙は破れる。生き物は死に、大切なものはいつかなくなる。当然だけれど、失望の質量は、価格や期待の質量に比例する。だけど、そんな失望と無縁だったのが銀玉鉄砲だ。

 昭和38年頃、駄菓子屋で売っている銀玉鉄砲は、50円だった。昭和30年代の50円玉は100円玉より大きな銀貨で、穴開きと穴の開いていない2種類があり、ともに菊がデザインされていて迫力があった。つまりはその迫力に見合う価値があったのである。現在の500円玉の雰囲気といえばいいか。今の500円玉よりやや小さくて薄いけれど、なんかもっと存在感に満ちていたような気がする。

 どんな家庭でも普段よほどのことがないと50円は貰えない。ひと月の小遣いが100円程度だったクラスメートもたくさんいたと思う。100円といっても月極めでなく月の総額。貰える日もあれば貰えない日もある。厳しい母親以外の家族にねだったり。月極めというのはずいぶん進歩的な感じだ。最初に聞いたときは驚いた。子供の自主性を重んじているというのか信頼しているというのか。そこには成熟とスマートさが含まれている。僕の周囲にはあまりいなかった。僕なら確実に数日で使い切る。1週間は持たないだろう、風邪でもひかない限り(たくさん小遣いがあると、かえってストイックになって遣うのを我慢したりしたこともあるが)。ちなみに昭和30年代後半は子供の散髪代が100円、森永やグリコのキャラメルの小箱が10円。おやつ代わりに小遣い一日10円というのが平均だったのではないだろうか。全く貰っていない子供もいたかもしれない。脳天気な僕は気が付いていなかったけれど、きっといただろう。そんな時代だった。

 僕は、まだ商売をしていた引退直前の祖父母と暮らしていたこともあって、かなり甘めで1日20円(月に600円! 後には30円になった。もっと貰っていた子もいたに違いないが――)。これ以外にも祖母にねだって文房具などを買っていたので、ちょっとした無駄遣い小僧だったわけだ。しかもときどき祖父母の家にやって来る、遠方に住む伯父たちが小額の小遣いをくれることもあり、年玉などと併せると年間にすれば相当な消費額になったはず。が、当時はそんなことは微塵も自覚しておらず、いつもお腹を空かせていたし街には欲しいものがあふれていた。小遣いはいくらあっても足りなかったのである。

 定価が50円もする駄玩具はとりわけ高価だ。ラムネ菓子や飴玉2個1円、小さな揚げセンベイ1個1円、しょうゆせんべいやエビセン5円、甘納豆のクジ5円、三角ジュース5円、ベッタン1シート(20〜30枚)5円、日光写真10円、コマ5円〜10円(コマ紐5円)、凧15円〜20円(凧糸5円)、ゴムボール10円〜15円、昆虫と魚兼用の網10円〜20円と、駄菓子屋ではほとんどのものは10円以内で手に入る。さまざまなクジ引きにも挑戦できる。たこ焼きは10円で8個食べられる店があった。日々の小遣いは当然食べ物にも多く費やされる(小遣いはおやつの代わりでもあった。現在のように家庭に子供の食べるものはなかった)ので、僕にしても毎日もらっていた20円を貯める余裕も習慣もないから50円の銀玉鉄砲は簡単には手に入らない。

 ではどうしたかというと、みんな正月の年玉なんかで思い切って買ったわけだ。近所の子供たちすべての事情を知っていたわけではないけれど、買ったのだと思う。僕の住む家の、半径100mくらいに4、5軒の駄菓子屋があったが、そのうち2、3軒は元旦から店を開けていた。昭和30年代の元旦は、年玉を手にすると早速、朝早くから駄菓子屋を襲撃に走って行ったものである。そうやって手に入れられた銀玉鉄砲も多かったはず。少しばかり大げさだけど、満を持して念願の高額商品を手に入れる、という感じだろうか。

 昭和38、39年頃、駄菓子や駄玩具だけを並べている店で、いちばん高価なものが銀玉鉄砲だったように思う。製品の魅力もあるが、昭和30年代の後半になって、ようやく駄菓子屋に定価50円のものを置いても売れる時代になった、ということなのかもしれない。100円あれば大きな商店街のおもちゃ屋でブリキやセルロイドのおもちゃが買えた。

 「もういくつ寝るとお正月」という歌にも唄われているように、10円〜20円くらいで買える凧やコマでもよく遊んだ。あの頃はこの歌の影響もあったのか、正月には凧を揚げたしコマを廻した。みんな素直にそうするものだと思い込んでいたふしがある。元旦にはあちこちで空高く凧が揚がっていた。当時の日本映画を観ても正月の情景を表現するのに冬空に映える凧が使われていたりすることが多い。映画の寅さんシリーズでは平成になっても正月シーンには凧が舞っていたけど。

SAP50
 正月の定番中の定番である凧やコマとともに、昭和38、39年頃に銀玉が大量に入る連発式が出現して一大ブームを迎えた銀玉鉄砲もよく売れたに違いない。男の子の数くらいは確実に売れたはず。近所の子供や同級生たちはとりあえず1挺持っていた。いちばんヒットしたのはセキデンという会社で製造されていたオートマチックSAP50の黒で、一緒に撃ち合っていた友達が持っていた黒いタイプのものがこのSAP50だと思われる。

MCA300
 僕が愛用したのは同じくセキデンの、連発式マジックコルトMCA300。これは販売期間が短かったのか売れなかったのか、それとも別の事情があったのか、あまり製造されていないようだ。レトロな市場でも出回ることが少ないようで、なかなか見つけられなかった。カタチも色も個性的でカッコいいのに僕よりほかに持っていた友達を知らず、みんなと違うことがちょっと自慢だった。記憶に強く焼き付いているのは、このゴールドに輝く(金色風で金属の質感を出そうとしていると思われる)マジックコルトだけなのだが、当時の写真を見ると、僕は右手にマジックコルト、左手に黒のオートマチックSAP50の2挺を構えて写っている。

 当時、黒のSAP50については全く覚えていないのだが、写真を見る限りどちらも所有していたようで、無駄遣い小僧の面目躍如ではあるが、一片も記憶にないのが少々不本意だ。性能・機能はともかくデザインやカラーが平凡で、僕の中ではスタイリッシュなマジックコルトの印象にかすんでしまったのかもしれない。

 実は銀玉鉄砲の入手には、年玉や小遣いを貯めて近所の駄菓子屋で購入、という最もオーソドックスな方法以外にもあった。その一つは駄菓子屋のクジである。もう一つは祭や初詣などの縁日での衝動買い、あるいは親へのねだり買いだ。まあそれ以外にも、親に駄々をこねて町の大きなおもちゃ屋で、立派な箱に入った高級品を買ってもらうというケースもあるが(駄々をこねずに堂々と買ってもらった子供もいるだろうが)、路地での撃ち合いには、金属などを部材に使用した重量感あふれたモデルは似合わない。なによりも不便だ。ジャンパーやズボンのポケットに収まるくらいのサイズでないと軽快に走れない。撃っている時間より、手に持って追いかけたり追いかけられたりしている時間の方が多いわけだし。大きなライフルや機関銃も1挺は欲しいところだが。

 それに第一、駄菓子屋で売っていた連発式銀玉鉄砲の性能は素晴らしく、銀玉も簡単に装着(入れるだけだけど)でき、引き金を引くだけで簡単に連発射撃できる操作性や、小さくて軽い携帯性、故障のしにくい構造(僕の持っていたマジックコルトは長年持っていたけど故障もなく全くトラブル知らず)、落としたり投げたり少々乱暴に扱っても壊れない弾力と粘りのあるタフなプラスチックの素材など、その優れた実用性に僕らは明確には自覚していなかったけれど深く満足したのだ。駄菓子屋で扱っていながら、その性能・機能はおもちゃ屋で売っている高級品にもひけをとっていないばかりか上回っていたかもしれない。大ヒットの秘密はそこにもあるだろう。

 銀玉鉄砲のクジ引きであるが、特賞や1等、2等、3等くらいまでが誰もが欲しくなりそうな上級モデルで、駄菓子屋の店先で優美に僕らを誘惑していた。大人達は罪なまでに巧みな仕掛けで、既に銀玉鉄砲を持っている子供にも小遣いを遣わせようとするわけだ。たとえば特賞や1等はウィンチェスターのような重量感あふれるライフルや大きなサイズの機関銃、2等や3等は照準器やサイレンサー付きの銀玉鉄砲、4等、5等は、50円くらいの普及版で、スカは銀玉といったような構成になっていた。

 銀玉鉄砲本体を持っていない子供にとっては銀玉だけをもらっても仕方がないし、持っている子供は4等や5等はいらないわけだけど、当時のクジ引きはそんなものだった。さすがに特賞や1等の大きなライフルなどは当たったことはないが、3等や4等くらいは当たったことがあるような気もする。残念ながら証拠も確たる記憶もないのだけど。

 銀玉鉄砲だけでなく、駄菓子屋に次から次へと現れる多種多様のクジ引きにもワクワクさせられた。クジをめくったり、引いたり、水につけたり、舌でなめたり、箱から出したり、あるいは箱を指で押したりと、あの手この手で僕らを誘おうと続々と新機軸を繰り出してくる。もちろん、単純な僕は、そのほとんどすべてに誘惑された。おもちゃだけでなく食べ物のクジも多く、ベロベロといっていたワラビもち風のクジもよくやった。

 1等はタイ、2等はヒラメ、3等はエビで4等がタコだったか、すべて魚の形になっていて、1等のタイや2等のヒラメは極めて大きい。当たってもたぶん一人では食べきれないほどに。スカだけは魚でなく小判状もので、1回5円、きな粉をまぶして食べるのであるが、味はワラビもちで案外美味しかった。遅い春から夏にかけての季節限定のクジだと思うけど、4等くらいは当たったはずだが、大きいものは不味く、スカの小さな方が食べやすく美味しかった(だけど当ててはみたいわけで)。

 ベロベロと全く同じような魚型やコイン型チョコレートのクジもあった(甘いことは甘いし、チョコレートの味はするが明治や森永製のようなスマートな味ではない。こちらは冬季バージョン)。大きいものを当てたことはあるが、家にも持って帰れず、食べきれもせず、難儀した。ほかにもさまざまな食べ物のクジがあった。詳しく思い出せないので残念だがドーナツや黒棒(クロボウとよんでいた)なんかのクジもあった。

 僕の自慢のセキデン・マジックコルト MCA300は、実際にはいつどこで買ったものか覚えがなく、既に所有しているところから記憶がはじまっている。モデルの品名はMCA300だが、50と小さく刻印されているので、定価50円のはず。先にも書いたが、金色風でプラスチックでありながら金属の風合いを出そうと工夫したのか、独特の質感で、デザイン、性能、耐久性に優れ、銀玉鉄砲のジャンルにとどまらず駄玩具の名作といっていいだろう。

 雨の日など、家でぼんやりしていた時、よく空撃ちしてバネの振動の感触を楽しんだものだ。引き金を引いた時の指への感触もバネの音の響きも心地いいものだった。癖になっていたのかもしれない。年長の友達の真似をしてAUTOMATIC MAGIC COLTと英文字が彫ってあるところにクレヨンを擦って塗り込み、装飾にも凝ったりした。小学3年生くらいで手に入れたと思うけれど、比較的長く、中学生になってもまだ持っていた。

 マジックコルトの後継機種と思われるセキデン・オートマチックSAP50が最も大量に生産され販売された大ヒット銀玉鉄砲のようだが、これも僕の写真で見る限り、所有していた記録があるわけだけれど、記憶には残っていない。オートマチックSAP50の50はおそらく定価だろう。ライフサイクルの長かった商品なので、金色や銀色(塗装されている)などさまざまな色違いやマイナーチェンジモデルがでているようだ。もしかすると僕が持っていたのはクジでたまたま当たったものかもしれない。なにも記憶にないので、あくまで推測だけれど。

 これら愛用のマシンを持って、近所の路地で銀玉鉄砲ごっこ――二手に分かれて撃ち合うゲーム――に熱中したのは小学校4年の正月前後である。いつもはあまり遊ばない同級生の家の前周辺が戦場だった。いちびって2挺拳銃で参加したのかもしれない。ここには4つ年下の弟をよく連れて行った覚えがある。弟はプラスチック製のマシンガンタイプを持っていたが、小学校に上がる前だったので「つばめ」だったと思われる。

 「つばめ」とは、鬼ごっこならつかまっても鬼になることなく、その遊びに参加できる小学校に上がる前の幼児だけに与えられた特権の名称。銀玉鉄砲ごっこなら、どちらかに属する(この場合はだいたい兄と同じチームになる)が敵から攻撃されることはない。大きな戦力にはならないだろうが攻撃参加はできる。小さな子どもを排除するのでなくゲームの中に組み入れながら、円滑にゲームを進めたり、小さな子どもに負担がかかるのを避けるためのローカルルールだ。地域によって名称(ひよこ、バンビなど)もルールも微妙に異なるが、意図しているところはほぼ同じ。遊びの内容にもよるが、小学生(あるいは3年生くらい)になれば自動的に「つばめ」でなくなる。

 冬休みが始まると同時に熱中し、戦闘は毎日行なわれ、三が日は停戦、冬休みが終わる頃に自然に終わりを迎えた短期熱中型であった。顔を撃つのは反則であるが、顔以外はどこを狙ってもかまわない。銀玉は軽いせいか衝撃も小さく、手など肌に直接当たるとちょっと痛いがたいしたことはない。顔面以外はどこに当たっても平気だった。このゲームは撃たれても死んだり倒れたりしない。二手に分かれて撃ち合うだけだ。だけど撃たれるのは嫌だから全力で逃げたり必死に隠れたりする。上手く狙い撃てると嬉しい。ただそれだけの遊びだけれど、撃ちつ撃たれつというのはスリリングで結構本気になって戦った。

 銀玉は水平に撃って7、8メートルは飛んだだろうか。やや上向きに撃ってそんなものだったかもしれない。3、4メートルまでが狙える距離だと思う。玉は失速しながら放物線を描いて飛んでいくので、自分の銀玉鉄砲のクセである軌道を予測して狙うのである。撃ち方によっても随分軌道は変わるのであるが。銀玉は何度でも繰り返し使え、撃ち合いが終わると、みんなで競って拾い集めることになる。踏むと粉々に砕けてしまうので、出来るだけ踏まないように注意しながら。

 銀玉の素材は軽い壁土のようなキャメル色のもので、表面を銀色の塗料でコーティングしてある。強い衝撃を与えると割れてしまうけれど、普通に発射している限り6、7割くらいは回収できたのではないか。ただ、素材は土状なので濡れてしまうと使えない。後年出回ったBB弾はプラスチック製で半永久的に使用できるが、そうならないところが昭和30年代駄玩具の魅力だろう。銀玉は濡れたり踏まれたりすると土に還ってしまうエコな素材でもあったわけだ。マッチ箱の半分くらいの箱に50個くらい銀玉が入って5円。50個くらいは全部銀玉鉄砲(セキデン製なら)の中に収まってしまう。

 現在、手元にセキデン・マジックコルト MCA300と、セキデン・オートマチックSAP50の2挺持っている。ほかにも数挺あるが、昭和30年代のものはこの2挺だけだ。同一モデルだが子供の頃に愛用したものではない。愛着のあったマジックコルトは壊れることもなく、ずいぶん長く持っていたけれど、引越しを重ねるうちになくしてしまった。オートマチックSAP50は最初から覚えていないので、いつ頃まであったのかも判然としない。

 つまり今持っている写真のマジックコルトとオートマチックSAP50は、最近入手したものだ。とはいうものの今に至っても印象の薄いオートマチックSAP50は、どこで手に入れたのか全く記憶にない。ブリキの巻玉鉄砲や水鉄砲などと一緒に箱の中に入っていた。どこかの骨董市でいろんな拳銃類をまとめて購入した際にでも混ざっていたのだろう。特に意識することなく入手していたということになる。そんな風に特に心を動かされることなく集めた駄玩具もたくさんあるが。

 一方の金色(あくまで風だが)のマジックコルトMCA300は、もう見つけられない、と諦めていたほど、ほんとうに長く出会えなかったのだが、この文を書き始めの2月21日、月例の四天王寺の市で発見した。陶器など本格的な骨董を扱う年配の業者さんの古びた木箱に、タイガーというメーカーのものやセキデン・オートマチックSAP50など大量の銀玉鉄砲の山に1挺だけ浮かび上がって僕を待っていてくれたのである(金色だからよく目立つ)。ようやく、だけどなんで今なんだろう? という感じではあった。やはり日常には不思議な風が舞うことがある。僕が手に入れた最新のタイムマシンでもある。

 閉店した駄菓子屋のデッドストックだろうか。比較的安価で手にいれることができた。駄玩具の中で、SAP50などの銀玉鉄砲は比較的安価に手に入るアイテムだと思うが、これだけレトロなものを探索していながら出会わなかったのだからマジックコルトは珍しいものなのだろう。状態もよく、いまだに当時と同じ状態で使用できる。以来、ときどき眺めたり、撫でたり、引き金を引いたりしているが、形状、質感ともに素晴らしいのに、あまり出回らなかったのはなぜだろう、と考えてしまう。採算性か、版権のようなものか、いずれにしても僕がのほほんと駄菓子屋通いをしていた頃に、セキデンの人たちは何かと格闘していたわけだ。

 このマジックコルトMCA300。タイムマシンとしては、まだ僕をどこへも連れて行ってはくれない。そのうち、すっかり忘れてしまったような時空へ僕を案内してくれるのではないかと、密かに期待している。なにしろ不思議な風に煽られて出現した逸品だけに、予想もしないところへ、と思うのだ。だけど、今回かなり絞り出したので、もう駄菓子屋や銀玉鉄砲などの記憶の引き出しには防虫剤のセロファンくらいしか残っていないかもしれないが。まあ、あまり遠く深いところへ連れて行かれても、帰って来ることができなくなる可能もあるわけで……。

その13
「ベッタン」(めんこ)で、
少年を磨く。

その12
昭和30年代の「お正月」

その11
少女は、ミツワ石鹸の香り

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