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その5 あの娘に、日光写真

誰にも会いたくない日は日光写真に耽る
日光社特製の黒い種紙をひろげれば
ロケットは宇宙へ飛び立つだろう
七色仮面は解けない謎に挑んでいるだろう 
光はボクを急かすだろう

快晴なら2、3分、曇でも5分
冬の太陽に照らされただけで
最新式高性能日光写真のできあがり
算数のように明快で、だけど計算のように単純でもなく
光のためらいやボクの屈託なんかを写してもいる

うまく焼き上がった印画紙は
なんだかいい匂いがするね
日向ぼっこをしている猫のような
理科室に初めて入ったときのような

いつも笑顔のあの娘の筆箱には
あんまり似てないけど、あんみつ姫をそっと入れておこう
ボクのポケットには、海に消えた天才投手
ボクだって快速球を投げられる日は近いよ

だけど光が描いた印画紙の輪郭は
新しい光が消し去るだろう
そこに写し出されたヒーローたちは
ただ静かに褪めていくだろう
七色仮面もあんみつ姫も、あの娘もボクも
ロケットや人工衛星さえも
眩しい光の飛沫に、ちょっとばかり試されただけだ

そして日光写真は、変質しない種紙と
使われることのなかった印画紙が残される
その箱の中には
何気ない冬の日のうつろいが閉じ込められてもいて

日光社、東海玩具などの日光写真
昭和30年代中期〜後期


 日光写真は、よく買いはしたが、たんたんとした遊びで、それほど熱中したわけではないのに、なぜか懐かしい駄玩具だ。コマやベッタン(めんこ)などほかの駄玩具に対する懐かしさとは何となく色合いが違う、不思議な感覚なのだ。

 冬になるたびに手の甲をあかぎれでカチカチにさせていた小学三年生の頃、日光写真は、まるで理科や図画工作の宿題のように健全で退屈な駄玩具だった。当時ちょっと小生意気になっていた僕は「日光写真なんてもう子どもっぽい」と感じていたように思う。
1シート16枚ほどの種紙と7-8枚の印画紙が入って10円。誰でも知っている手軽で安価なおもちゃだから、小遣いをもらって駄菓子屋通いをするようになると、当時の小学生は一度や二度は買って遊んだはず。僕は子どもっぽくて物足りないことを承知で何度も買った記憶がある。写真機を思わせるパッケージに惹かれたのか、見たことのない種紙との出会いに期待したのか、光と遊んでみたかったのかはわからないが、とにかくよく買った。

 家の近所に、しもたやの玄関いっぱいに駄玩具を並べた小さくて静かな駄菓子屋があった。外から見ると全く普通の家で、玄関の引き戸を開けると、ベッタン、ビー玉、ベーゴマ、コマ、写し絵、ブロマイド、組立飛行機、パチンコ、蝋石、飴玉、ラムネ菓子などがぎっしり整然と並んでいる。正統派の優良玩具や定番の駄菓子類が多く、ひっそりとした空間の中に、いつも代わり映えのしない日光写真や古びた時代劇のブロマイドなど、あまり売れそうもない、だけどどこか魅力的な駄玩具が僕たちを迎えてくれた。

 射幸心を煽られてムキになって無駄遣いしたクジ引きや刺激的な2B弾が揃っている、常に流行を追いかけている人気の駄菓子屋には日光写真は置いていない。季節にもよると思うが昭和38年頃には、日光写真はすでに時代遅れのものだったのだろうか、ほとんどの駄菓子屋では扱っていなかったような気がする。
 だから、なのか日光写真は、しもたやの駄菓子屋でしか買った記憶がない。初めての場合や二度目はともかく、三度目以降は、日光写真目当てではなく、ほかにめぼしいものがないから仕方なく日光写真にたどり着く、という感じ。そこで買った日光写真は、いつも一人で現像作業に勤しんでいたように思う。光の中で一人ひっそりと遊んでいる映像しか出てこない。

 どんな種紙――ネガになるもの。ロケットや人工衛星、国内外のテレビや漫画の主人公、人気俳優や歌手などが描かれているが、人物はあまり似ていないものが多い――が入っているかな、と箱を開けるのは楽しみだったが、種紙の種類に満足したことや、がっかりしたことがあるかどうかよく憶えていない。それほど気にならなかったのかもしれない。
 種紙に描かれた、あまり似ていないテレビのヒーローや、ほとんど別人といっていい歌手やスターたちも、稚拙な絵ながらそれなりにカッコよかったし興味はあったけれど、ベッタンの若乃花や朝潮、ベーゴマの長嶋や力道山のようにみんなが欲しがるほどのものではなかった。全体として地味で刺激に乏しかったのだろう、地域の子どもたちや同級生がこぞって日光写真の現像や種紙集めに夢中になることはなく、誰かと一緒に現像を競い合ったこともない。日光写真について友達と何か話をしたという憶えもない。
「今日、学校終わったらベッタンしょうか?」
という誘い文句はあり得るが、
「明日の日曜、僕の家で日光写真せえへんか?」
は成立しなかったのだ。
 そんな日光写真が、いい歳になってふと気が付いてみると、とても懐かく思えるのはなぜだろう?

 凧やコマ、ベッタンやビー玉など、技術や経験を必要とするもの、1人では出来ないゲーム性の強いものは、成功や達成感、あるいはひどい失敗などがつきものだ。初めてコマを廻せたときや、凧を空高く揚げることができたとき、ベッタンやビー玉を大量に勝ったときなどは、実に嬉しい瞬間だ。もちろん、いま買ったばかりの凧を一瞬にして電線に引っ掛けてさらわれてしまうこともあるし、真新しい組立飛行機やグライダーを屋根に上げたり川に落としてしまったりすることもある。せっかく何日にもわたって勝ち続けたベッタンやビー玉をあっという間に失うこともあるわけで、どちらかというと、こっちの場合の方が多いのだけれど、それはそれで印象深く記憶に刻み込まれることになる。それらの遊びや駄玩具の情景を思い起こすとき、近所の悪ガキの顔や声、ざわめきなんかも一緒に甦ったりする。

 だけど日光写真の情景は、僕と日光写真だけだ。もし登場するなら、眩しい陽の光やひっそりとした駄菓子屋くらいだろうか。ほかの誰もいない。音も聴こえてこない。静かな情景だ。そこには繭のなかにでもいるような僕だけの時間がある。
 カメラを模した箱に最新のキャラクターが描かれてあったり、鮮やかな色調だったりするので、一見なにかとても明るく楽しいもののように感じられるかもしれないが、実は日光写真はアンニュイな駄玩具だ。その種紙や印画紙は静かな孤独がとてもよく似合う。

 16枚ほどの絵が連なった一枚の種紙シートから、現像したいお気に入りの一枚を選び、ミシン目に沿って切り取る。ミシン目を何度も折り、ゆっくりていねいに切り離していく。
 種紙がきれいに切れたら、印画紙に真っ直ぐ重ね合わせ、日光写真本体のガラスの下にセットする。それを陽の当たる場所に1分〜3分ほど置けば、印画紙は透明の部分と黒い部分を感光し、透明の部分は黒く、黒い部分は白くなってできあがる。あまり長い間光にさらすと全体的に焼けてしまって、白黒のメリハリがなくなるので、程よいところで現像を止めなければならない。途中で触れたりして動かしてしまうと二重になったり微妙にぼけたりして上手くいかない。初めて買ったときは我慢できずに触ったり覗いたりして失敗することが多い。ガラスが付いているものは少し重く、種紙と印画紙をうまく密着させることができるので、扱いやすい。

 そんな作業を、一人で時の過ぎるのを数えるようにしながら、照ったり翳ったりする光を相手に、ネガである種紙を一つひとつ印画紙に焼き付けていく。ただそれだけのことだけれど、路地で一人、日光写真に熱中していると、時々雲が邪魔をしたり、猫が通り過ぎたり、近所のおばあさんが買物から帰ってきたり、どこかから魚を焼く匂いが流れてきたり。いつもより親しさを増した冬の光が、見慣れた光景に降り注ぐのをぼんやり見ていたり。日光写真の仕上がりを待つ数分間の、静かな情景がもたらす心地よい寂しさのようなものが、この玩具の周辺には漂っている。陽光は種紙に描かれた稚拙なヒーローを印画紙に焼き付けながら、僕の脳裏にも、そんな冬の情景をくっきりと焼き付けていたのだ。大人になって日光写真に惹かれるのは、小学3年生の頃から、既に日光写真にイメージとして付随したそんなことのすべてがなんとなく懐かしく感じていた玩具だったからかもしれない。



 大人になって、日光写真がこの世にまだ存在している、ということを現実に発見(写真では見たことがあった)したのは10年程前に最初に行った京都の骨董祭だ。おそらくデッドストックのきれいな状態で、数個の鈍色をした日光写真の箱がショーウィンドーの中で輝いていた。きっと恍惚となってぼんやりながめていたことだろう。その頃は子どものようにいろんなものの前で立ち尽くした。ラムネ壜、オリンパス・ペン、セルロイドの相撲の玩具、月光仮面のかるた......。けれど、当時は駄玩具ブーム、全般的なレトロブームで、紙ものの駄玩具が異様に高く、その日光写真も、笑ってしまうくらいに高価だった。そのとき購入したゲルマニウムラジオよりも高かったので、不審に思われるくらいに何度もその前を通りはしたが、結局あっさり諦めた。
 その後、写真にもあるように、大阪の某百貨店の古本市で数個、大阪の四天王寺の骨董市で数個と、数種類の日光写真を100〜1000円くらいの、ほどほどの値段で購入することができた。別に種紙もいくつか購入し、と、欲しがればきりがないが、現在所有しているものにはとりあえず満足している。

 日光写真は、問屋から駄菓子屋に商品が入るときは未組立の状態で、駄菓子屋で組立てられて種紙と印画紙がセットされると聞いたことがある。実際にそんな状態のものを購入したこともあるし、種紙だけ売られていることもあった。かつては問屋街で大量にデッドストックが見つかったというような話も聞かされたが、最近ではそういうこともない。ここ数年、紙ものの駄玩具の値段が下がっていることと(30年代の日光写真など、案外よくあるものは買いやすくなったが、珍しいもの、マニアが多いものなど、ものによっては高価なものもたくさんある。この分野でも二極化が起こっている)関係があるのかもしれないが、骨董市で日光写真を見ることも少ない。特に最近はほとんど見かけない。もう出尽くしてしまったのかもしれないが、魅力的な値段がつかないので、業者の人たちも熱心に探し回っていないのかもしれない。種紙も見なくなった。

 一度どこかの家から出たのだろう、誰かが印画紙に種紙を焼き付けて遊んだ昭和30年代の頃そのままの状態で日光写真が出てきたことがある。それは駄菓子屋売りのものでなく、学年誌の附録だったが、40年以上前のものが、ついさっきまで誰かが遊んでいたような状態で残されていた。そんなとき、この日光写真の持ち主はどうしただろう、とふと思ってしまう。どこでどういうふうにこの日光写真とはぐれてしまったのか、と。
 では僕はどこで僕の日光写真とはぐれてしまったのだろう。もしかすると小学3年生のときに僕が駄菓子屋で買って、路地で一人遊んでいた日光写真そのものが、どこかの骨董市で出てきたりすることはないかな、などと幻想したりすることがある。
 僕の環境を考えた場合、そんなこともそんなものもあるはずはないのだが、あの頃、僕自身が光の下で遊んだ日光写真。もし、そんなものがあるのなら、その日光写真の箱の中からは、小学3年生の僕自身が冬の光にこんがりと焼き付けられた、古ぼけた印画紙が出てくるはずだ、などと妄想を膨らませたりしている。

その13
「ベッタン」(めんこ)で、
少年を磨く。

その12
昭和30年代の「お正月」

その11
少女は、ミツワ石鹸の香り

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