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その4 「エンマク、もしくは2B弾」

冬の駄菓子屋はボクらの火薬庫だ
2B弾、巻き玉鉄砲、かんしゃく玉、爆竹、クラッカー……
小さなポケットにたくらみを眠らせて
あかぎれた手でちっぽけな秘密に火を付ける

よく冷えた黄昏にはエンマク、もしくは2B弾を
香ばしい火薬の匂いは、北風にも不安な心にも化合する
陽が落ちるとボクらは家に帰るかわりに
ありったけの2B弾を次々とマッチに擦り続けるけれど
すべてはいちばんなつかしい人の声で呼ばれた空耳のようなものだ

きみはいつも半ズボンで、顔よりも、その膝小僧に表情があったね
おそらく「2B弾なんてあったかなあ?」なんて言うんだろう
だけど、きみのなくしたきみの記憶はボクが持ってる

煙や火薬の匂い、炸裂音に包まれて陶酔していたあの頃
きみは家からマッチ箱を持ってくることができなかった
駄菓子屋の鴨居の上に、いつもきみのマッチはあって
中学生になっても、ずっとそこにあったことなんかを

いまもあのマッチがそこにある、なんて野暮はいわない
だけど、2B弾を擦る手触りや空へと放り投げる感触を
ときどきは夢にみたりすることはないのかい
心地よい爆音が耳の中に
ふと、こだましたりすることが、さ

あぶない魅力の、2B弾(エンマク)
(昭和38〜39年頃)


 最初に隠し事や内緒事を憶えたのは近所の駄菓子屋だった。無駄遣いの快楽を知ったのもここである。駄菓子屋には買ってはいけないものの魅力と刺激であふれていた。実際には大いに買っていたので、買ってもいいけど家では絶対買っていないことにしなければならないもの、というべきか。駄菓子屋は嘘つきのはじまり、だったのである。5円で売っていた三角ジュース(凍らせたものとジュース状のもの)、風船キャンデー、ベロベロなど不衛生といわれていた食品類、かんしゃく玉、平玉・巻玉を使うブリキの鉄砲、2B弾、爆竹、ダイナマイト、クラッカーなどの火薬を用いた駄玩具などがその代表だ。

 とくに僕は祖父母(お年寄りはいつの時代も心配性なので)と暮らしていたので、2B弾のような本格的にあぶなそうな火薬駄玩具は、買っていいかどうか尋ねることすらもできない、とんでもない厳禁アイテムだった。駄菓子屋で売っていたよい子のおもちゃは、コマ、凧、風船、日光写真、組立飛行機、蝋石、ゴムボールなど数多くあるが、小学3、4年になるとそんな優良玩具は一通り遊んでしまって、いくら家で禁止されていても、男の子なら誰でも新しくて危険な香りのプンプンするものに手を出しはじめる。

 2B弾、といっても、実は僕が通っていた兵庫県尼崎市藻川沿いの駄菓子屋ではなぜかみんな「エンマク」とよんでいた。煙幕のことのように思うが、違うのかもしれない。この駄菓子屋だけに通用した名称か、地域的なものかはわからない。2B弾という商品名を知ったのは大人になってからで、エンマクよりは2B弾のほうがカッコいいが、実際のところ全く馴染みはない。そのエンマクこと2B弾に夢中になったのは昭和38年、小学校3年生の冬、正月頃から2、3月にかけての短い間だったと思う。僕らの地域では火薬おもちゃは冬を代表する駄玩具(春から夏にかけては川や雑木林で主に昆虫や魚を追いかけるのに忙しい)で、とくに2B弾は、そのあぶない魅力で地域の誰もがこぞって買って遊んだ花形商品だった。

 ぎりぎりまで我慢して空に向かって放り投げ空中で爆発させたり、川や水溜りに投げ込んで炸裂音とともに水の飛沫を上げさせたり、なかには手に持ったまま爆発させたりする猛者もいて、さまざまなシーンが記憶にある。5、6年の上級生たちと一緒に敵味方に分かれて大規模な戦争ごっこをして、大量に2B弾が飛び交い、あたり一面、煙と火薬の匂いに包まれて陶酔状態になったこともある。短期間だったにせよ、爆発的、記録的に売れただろう、駄菓子屋の近くの川べりや空き地は2B弾の破片がいつも散乱していたものだ。

 写真にあるように、本体はタバコを小さくしたような、長さ5、6センチ、直径6、7ミリほどの厚いボール紙でできた筒状のもので、鮮やかな色彩の紙で巻いてある。先に火薬が付いていて、マッチで擦るだけでモクモクと白い煙を出し、数秒後に華々しく爆発する。爆発も小さいながらも巻いている堅い筒を炸裂させるほどの威力があり、迫力、スリルは満点だ。川など水にも強く着水しても爆発するタフさも頼もしかった。しかもマッチのように擦るだけの手軽なワンタッチ着火、煙を出しながら数秒後に爆発する、という機能性やカッコよさ、さらには適度なあぶなさ(使い方によってはとても危険だが)も兼ね備え、ちょっと冒険してみたい小学生の小さなハートを刺激し満足させるには十分過ぎる要素が揃っていた、といえるだろう。

 のちに短い導火線の付いたダイナマイト(僕らの地域だけの呼び名かも)も出るが、マッチで火を付け数秒後に爆発するという、まさにテレビで見るダイナマイトのミニチュアで、威力・迫力も、危険な香りもあるもののシンプル過ぎたのか、何度か買って遊んでみた記憶はあるが2B弾ほどの魅力はなく、僕らの間ではヒットしなかった。爆竹やクラッカーも2B弾と比べると見劣りがした。かんしゃく玉(関西では別の名前だったような気もする)は投げつけるだけなのですぐ飽きてしまい熱中するには子どもっぽ過ぎた。

 写真の箱入り2B弾は、6、7年前に、いつも何かと楽しいものを発見する大阪、四天王寺の骨董市で見つけたもの。一箱1,000円。同時にかんしゃく玉も同じ価格で一箱買った。昭和38年当時は10円で20本、つまり1円で2本だったように思うので、100本で50円だから、恐ろしい高騰ぶりではあるが、6、7年前は駄玩具にやたら高値が付いており、購入時は安いような気がした。実際、べったん(関東ではめんこ)やビー玉、ベーゴマなどはよく見かけるものの、遊んで使えばなくなってしまう消費型の火薬玩具を市などで見かけることは珍しく、手に入れた時は大発見のように感じたものだ。それ以来、手頃な価格、状態のいいものは発見できずにいる。とはいえ探せば長さや太さ、デザインなどいろいろな種類のものがあるようで、気長に集め続けたい、とは思っている。せっかく手に入れた箱入りのデッドストックは、湿気ないように、箱をつぶさないよう気を使って保管しているが、箱の自然劣化が少々気がかりだ。もちろんもったいなくて1本も使用できずにいる。パッケージにも本体にも彩光弾とあり、2B弾の販売が禁止された後に別の名称で販売されたものなのか、あるいはメーカーごとにいろいろな名前を付けて販売していたのかは不明。

 さて、昭和38年に戻ると、我らのエンマク・2B弾は知らないうちに駄菓子屋から消えていた。ずっと後になって知ったのだが、子どもの事故があったらしく、発売禁止になって市場から一斉に姿を消してしまったということだ。新聞にも大きく取り上げられたそうだが全く気付きもしなかったし、話題にもならなかった。クラッカーや爆竹はその後も長い間あったと思うが、2B弾のように興奮することも夢中になることもなかった。それにあれほど魅力的だった2B弾が駄菓子屋から消えても、とくに残念に思った記憶がないので、既に僕も、その地域の子どもたちも興味は別のものに移っていたのだろう。発売禁止すら知らず、残念がるきっかけすらなかった、のかもしれない。
 次に僕らの間で爆発的に流行ったのは、翌年の正月頃のことになるが、やはり世の父兄には歓迎されない、ちょっとあぶない魅力の飛び道具玩具、銀玉鉄砲だった。

その13
「ベッタン」(めんこ)で、
少年を磨く。

その12
昭和30年代の「お正月」

その11
少女は、ミツワ石鹸の香り

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