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其の三十 落し物

ぐるりと一回りして戻って来たが、やはりその鞄はその儘であった。
深夜の犬の散歩のことである。

道端の植え込みに、寄せ掛けて置かれたような黒い鞄。
人通りの途絶えた、深夜の道路である。
ちょっと置いておきました、と持ち主が現れる様子はどうにも感じられない。
ああ、ここだったか、と持ち主が走ってくる様子ももちろんない。
犬を連れたまま、周囲の様子を伺い、うろうろと考えていたが
思い切って「落し物」を持ち帰ることにした。

黒い鞄の中身を家族とあらためて見る。
道路地図、部屋の鍵、小銭入れ、
レンタルビデオが二本、宝くじが30枚入っていた。
大切なものが沢山入っているから落し主はさぞ困っていることだろう。
だが、よくよく見渡してみると、
なんとなく二番目に大切な物ばかりのような気もする。
肝心な財布がない。
携帯電話もない。仕事の書類も無い。
「ははあ」と合点する。
車で動いていたな。
道端に車を止め、付近の団地の部屋などを訪ねたのだろう。
車に戻り、鞄を脇に置いたまま何かをしていたのかも知れない。
だから、
財布や免許証、車の鍵を持ったまま、鞄だけを置き忘れ、
車を出してしまったのかも知れない。
明日、警察に届けてやろう。

すると家人が言う。 「暢気なことを言ってはいけない。
部屋の鍵が無い時点で家に帰れないではないか。
レンタルビデオの様子から落し主は独り身だ。
鍵を開けてくれる家族は居なかろうから、
部屋に入れず、困り切っているに違いない」

レンタルビデオの一本は「女教師」もののエロビデオである。
もう一本は「華氏451」。
なかなか渋い趣味ではないか。
落し主は本や学校が好きなのかもしれないな。
落し主は独り身だが案外、若者では無いかもしれない。
「華氏」のついでに「女教師」なのか
「女教師」のついでに「華氏」なのか。
などと考えていたが、
落し主の困窮が伝播したかの様に家人が怒りだした。
「こんな厄介な落し物は今すぐ交番に届けるか、元の場所に置いて来い!」
何故、落し物を拾って夫婦喧嘩をせねばならないのか。
近所に交番があればとっくに届けているが、
生憎、一番近い交番まで歩いて二十分は掛かってしまうのだから、
この、深夜に届けるという提案は勘弁してもらいたい。

しかし、
家人の苛立ちが納まらないので仕方無く
警察署の遺失物係に電話を掛ける。 通りすがりだろうが、善意に因ろうが、
発生した責任はすみやかに果たさなければならない。
「現在、当該地域にそのような鞄の遺失物届けは出ていない。
明日、最寄りの交番に持って来ていただければありがたい」と
甚だ最もな回答を得てその通りにすることにした。

翌朝、駅前の交番に「落し物です」と黒い鞄を持って行った。
巡査は速やかに事務机の上に新聞紙を大きく広げ、
中身を出して並べ始めた。 「ああ、これなのですが…」と私が手を出そうとした途端、
大仰に静止された。
「触らないで! 何か事件と関係あるといけませんから、
中の物には手を触れないで下さい」 「ああ、はい」と手を引っ込めながら、
昨夜、家族で散々に弄り回してしまったことを思い出す。
事件と関係ないことを祈る。
小銭入れには五百円玉がぎっしり詰まっていて
八千円近くも入っていた。
落し主はスロットかパチンコが趣味かもしれない。
診察券などもあったので、
おそらくすぐに連絡が取れるだろうと巡査が言う。
礼も権利も放棄して帰宅する。

帰路、宝くじのことを思い出した。
もし、落し主が現れず、宝くじが当たったらどうするのだろう。
宝くじは連番十枚が三束だった。
どの方向とも定まらない微かな後悔を感じた。

其の七十二
十分にご注意ください

其の七十一
一本木

其の七十
ダイヤと法灯

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