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其の十八
咳
煤煙の町で町工場を営んでいた上に
祖母は煙草のみだったので、いつも咳き込んでいた。
年をとってから煙草は止めたが、咳き込む度合いは重くなり、
痰は切れにくくなるようであった。
咳き込む祖母の痰はどうすることもできないけれど、
背中を撫でさすったり、叩いたりしてみる。
夜中にうつらうつらしながら聞く、
止むことのない咳は切ないものであった。
しかし、
風呂に入っているときだけはガラス戸と湯気の向こうに
祖母の咳が遠のいている。
私は風呂場のガラス戸の偉大さを知った。
人の痛みは人の痛み。
互いの皮膚を隔てて、本当を知ることはできない。
だから、新聞には悲惨な記事と愉快な記事を隣り合わせに
並べることができるのだ。
もし、すべての痛みを共有したら、誰しも気が狂ってしまうだろう。
危ない火口付近に立つ宮沢賢治のことを考えてみる。
それでも、自分の子供には、人の痛みを思いやれなどと、
それらしく伝えてみる。 |
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