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第75稿 日本人自身忘れ気づかない宗教心

 最近、ニュースで毎日報道されている大阪市立高校生自殺問題。そこに日本人自身忘れ気づかない宗教心についてに想う。

 東北では地震と津波によって当時避難生活を余儀なくされていた人々の、支援物資を受け取る場面が当時毎日のようにテレビの画面に映し出されていた。私ども、日本という国に住んでおりますと、何一つ不思議ではない当たり前の行動となります。
 が、他の国々では「日本人はすごい」と言う報道をされて居りました。暴動も、略奪もない。先進国も先進国で無い国においても必ず何らかの災害などが起こると暴動と略奪は起きます。
 そうです、日本以外の国は何か災害や大きな事件が起こるとその後には暴動と略奪が必ず、間違いなく起こる。起こら無いことが異常な事になります。
 世界は200程の国に分かれている。唯一日本国だけが暴動も略奪も起こらないのです。「日本人は、一人一人すばらしい宗教心を自覚している。すばらしい」と世界の国々で絶賛されたのです。

 すばらしい宗教心とは、何を言っているのでしょう。此処が日本人自身忘れ気づかない宗教心、です。

 歴史的な話は飛ばし。江戸時代、寺院は今日で言う住民管理と教育事業をしていた。関所を越す通行手形の発行と寺子屋である。幕府はそれらの仕事を寺院に委託し給与を支給し、お寺を保護していた。
 寺子屋は無料の教育機関です。寺院でありますから当然のこと宗教的精神も知らず知らず学んだと言う事になります。江戸時代末期、諸外国から多くの方々が日本に訪れています。
 その誰しもが、日本人の宗教的精神生活とその意識の高さに驚いている。日本にキリスト教を伝えに来た、ザビエルもそのことを当時イエズス会本部に報告してます。その報告書は今も大事に保存され「イエズス会日本書翰集」「聖フランシスコ・ザビエル書翰集」として和訳刊行されています。
 ところが、江戸時代も終わり明治に入ると日本は「神の国」に政策転換し天皇家の仏様も歴代天皇の位牌も総て京都の泉湧寺に移された。此処で日本は仏教を失った。天皇は「現人神」と成り、戦後「人間天皇」になった。そして、日本人は神道を失った。
 時代を少し戻し、明治政府は仏教を排斥します「廃仏毀釈」です。 それまで培ってきた教育、医療、社会福祉などのシステムをヨーロッパから導入した。それらの制度は、本来キリスト教の土台に成り立っている。明治政府はキリスト教の土台を外し導入した。特に、今日も政治の世界と教育の世界では、その制度は宗教の土台を否定し無視し引き継いでいる。そのことが、いかにもインテリ思考のように言い切る人もいる。謂わば、宗教的精神文化の無い事に疑問も持たずに政治家や官僚、更に教育関係者が、今日も明日も日本を指導していることになる。
 もし「特定の宗教を持っていない」と、ヨーロッパ、アメリカ、中東などの国々。特定の宗教を持つ文化圏で生まれ育った人に言えば、「自分は信用のおけない、何をしでかすか判らない人間」と、宣言したことになります。
 謂わば、宗教は人間の行動安全装置として捉えられている。その安全装置を無視した構造が、今日日本の色々な制度や自己主張の土台と成っている事に気がつかないまま私たちは生活をしている。
しかしながら恐れることは無い、世界は驚いた、
「日本人はすごい」と。

 福沢諭吉は「人の上に人を作らず。人の下に人を作らず」とすばらしい言葉を残している。私は、此処に大きな過ちが在ると観ている。「人の上に神仏を置き。人の下に人を作らず」で無くてはいけない。人の上に神仏が無いと言うことは、一人一人が「一番偉い」と言う事になる。
「私の考えが正しい」 と、お互いが言い争う。
 以前、国会中継での一コマ。「あなたは、疑惑の総合総社」と言った人も言われた人も、檻に入れられた。その対立関係は一夜にして同盟を結ぶ。主義も主張も無い。支持した人々、まして主権者にすら謙虚な言葉も反省の言葉も無い。糾弾し喚き散らす事はニュースになったが、その後は知らない。
 なぜ、聖徳太子は日本の政治に仏教を取り入れたのか、学校で歴史は習うが、その考えは教える事すら無い。寺子屋では知らず知らず学んでいた。
 時代は今日、神棚も仏壇もない家に住み、理屈と権利だけを主張し責任のない行動と発言の溢れかえる社会に暮らし。私が一番偉いと言う錯覚は、謙虚になる事も感謝することも、まして反省することも無い。
 仏教を排斥した明治以降の学校教育ですら「教育勅語と修身」が在った。今はそのかけらも無い。
 60年安保70年安保で火炎瓶を投げていた「デモシカ先生」のホームルームと言えば反体制主義か共産主義、社会主義の講義の時間。小中学校六年間担任変われどその洗脳は続いた。
 宗教的意識に欠け、宗教を否定し安全装置無く落ち着き払う指導者が、日本を動かし子供を育てている。
 その様な中で、間違った自己解釈で、富国強兵精神的教育感覚を以てビンタされ自殺した高校生は日本の教育制度の犠牲者に他ならない。ニュースも新聞もワイドショーも一言の疑問の発言も無い。その意識に欠けているのか大阪市長は、根底にある問題に触れず発言をする。大臣は自身の言葉だろうか、後々責任追求を恐れ原稿を読んでいる様な発言をする。
 一人の人間が死を選び、誰にも相談する事すら無かった。
 ビンタした人間の顔も名前も出てこない。校長を更迭し、体育科教員を増やし、入試中止で総て問題解決。どこに、反省が有るのだろうか。幾度となく繰り返される不祥事の度、管理責任者は頭を下げる。本当に謙虚な気持ちを持ち反省が生まれても、引き継ぎ事務の無い人事異動は同じ事を繰り返す。
 警察、裁判所、弁護士に訴えても問題は解決しない。総て、理屈と事務の世界。問えば、必ず答えるだろう神仏を持たず謙虚さを忘れ六法全書を片手に開き「宗教は必要ない」と。
 どこにも、悩み迷いを聞いてくれる宗教者は居なかったのか。あのワンマン首相と言われ、人に貸し借りを作ることを毛嫌いした吉田茂で有っても、事あるごと名僧と言われた人の元に出入りした。日本史に名を残す武将も何かあれば、寺に出向いた。
 「侍」という文字は「人」に「寺」と書く。中国の文字には無い。日本で作られた「国字」の一つである。「武士」とその存在は違う。その精神を理解されているからこそ日本を「侍の国」と外国から称されるのである。
 政治、教育どの分野においても、市井に暮らす人の上にも神仏の存在があった。一番偉いと思う考えの上に神仏を置いていた。常に謙虚、感謝、反省が在った。
 聖徳太が仏教を国教と定め、佛国土を作り上げようとした思い。間違いなく生き残っている。暴動も略奪も起こらなかった。日本人にその精神は間違いなく息づいている。
 悲しいかなその陰で、安全装置を持たない人間の行動はいつの時代も、反省無く繰り返し何かを犯す。
 それでも、世界は絶賛する、日本人自身忘れ気づかない宗教心。
大門 合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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