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第34稿 「おくる」について

未だ観ていない。映画「おくりびと」・・・
職業柄観てみるか・・・

観ても居ない映画を論ずる予定は無い。
そこで、「おくる」について一考察

納棺師の話であるが、「納棺師」と言う肩書きを初めて聞いた。
国内に協会も有ると初めて知った。
欧米でのエンバーミング(遺体に防腐処理をして化粧を施す技術)に
従事する方々を広い解釈の範囲ででこれに属するのかと思う。

今日、病院で亡くなる方は80%に近い。同じく自宅では20%を下回る。
何時の頃からか自宅で命を終えると言うことが聞こえなくなった。
寝床から毎日眺め慣れ親しんだ天井の下で
家族縁者に手を握られ名前を呼ばれつつ命を終えると言うことは、
30年40年前は至って当たり前の話であった。
当然、湯灌や着替え化粧などは親族が行う行為であった。
まして、他人に願うことは少なかった。

今日、家族構成のシステムが変化したことに加え、
家族も何をして良いのか何をするのかまったく知らず判らず、
葬祭業者にほとんどを丸投げしている様にも感じる。
更に、自宅で葬儀を行わず会場を借りての葬儀自体が都会地方にかかわらず、
親近者による行為を減らしている要因にも為っているのであろう。
それは、古来やかましく言われた
「逆さ水」「声かけ水」「左柄杓」などという
習俗の衰退に拍車をかけけている。

それでも今日、葬祭業者の方々はあくまでも補助的存在としての手伝いであり、
遺族と親近者が中心であるという意識を忘れず仕事をされている場合が多い。
まして、湯灌や納棺に至る迄総て葬祭業の仕事と考えるのは
「おくる人々」の大きな過ちと言える。

たしかに遺族の心情からエンバーミングを必要とする事態も有る。
それはごく僅かで有ろうし、
時には遺族の目に触れない方がよい場合もあるであろう。

「おくる」と言う行為に決まりは無い。
習慣習俗に振り回される必要もない。
只、遺族親族以外の他者に任せる行為は、
一つ考えるべき「おくる」側の意識であろう。

因みに、家内の時は縁者集まって総てを行った。
棺の蓋の裏には家族は勿論、生前に縁を頂いた方、
子供の友達に至る迄寄せ書きや落書き等々書いて頂いた。
今、父母の棺桶を制作中である。
現在、存命とは言え、遅からず遠からず。最後の親孝行。

尚、僧侶の行う宗教的儀礼や関連の事柄、
古来の習俗に対しても、何をしている、していたのかをその場であっても、
生活に落ち着きが出てきてからでも
問いを発することは大事な事と申し上げたい。

大門 合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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