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第25稿 お参り-8 の 前置き

 先日檀家さんのお仏壇を移動した、祀りやすくする為。
距離にして30メーターほど。
 家をいくつかお持ちである。都会であれば、大したモノである。が田舎のこと、
とにかく土地の価格は都会に比べものにならない。

 今預かっている宝勝寺という寺でも山林だけで10万坪300,000平方メートルを超す、境内は750坪弱2500平方メートル程所有している。境内は教会敷地と言うことで固定資産税は0。山林は年間50,000円ぐらい、つまり固定資産税評価額0の場所もある。しかしながら購入しようとすればソレナリに値段はつくが、下手すれば子供の小遣いで手も届く。全国でも紀南地方は道路整備の大変遅れた地域である、今月11日には田辺まで高速道路が延長供給される。田辺の次は白浜、日置川、周参見(聞いたこともない地名ですね)へ進んではいるが果たして(幾らで土地を買ってくれるのか。とヤキモキしている人がいる。)現実は・・・。

 日置川には未だ当たり前のようにメダカが泳ぎオイカワやアユカケなど多くの生き物が生息している。貴重な自然環境を守っていると言えば格好がよいが、裏を返せば企業や工場も無く、生活排水と言う人間の生活活力が無い。川を衛るならば、(ゴミを河原に残していく人々が来ないために)道路は要らないことになる。夏には子供たちが泳ぎ潜って遊ぶ。寺の前に流れる日置川は日本でも数少ない環境を維持している。

 話戻って、仏壇を移動したお家の次男君は3年前に急逝した。
次男君の話に及び、喩えは悪いがと言って、

 
  人生の記憶は、車窓から見る移り変わる景色である。
  電車の中の私は動かない。動いているのは電車の外の景色。
  生まれ落ちてからの経験や学習した知識が意識として
  私達の感情・人格を作り出す。
  私の中の私(経験、学習をする前の私。感情、
  人格の芽生える前の私)は動かない。
  私の外の景色だけが移り変わっていく。ただ、経験から芽生えた感情が
  損得勘定(を学習した事)によって外の景色に引きずり回される。
  何時までも、過ぎ去り移り変わる景色に執着は出来ない。
  生も死も、唯移り変わる景色そのもの。怪我も病気も歳を取ることも同じ。
  総てのモノは変化していく。変化していくそのままの中に、
  動かない私を置いたまま景色の流れを、
  そのまま受けて喜んだり悲しんだりすればよい。
  しかし、損得勘定に私達は振り回され迷い苦しむ。

のような話をした。

  私達は、必ず縁の深い縁者を亡くすと多くの人は悲しみ落ち込む。中々「死」と言う景色を受け入れられない。いたって不思議な感情ではない。が、日々其の感情は薄れていく。それもまた不思議なことではない。ハッキリとした景色として覚えていても曖昧になる。ボンヤリとした景色は更に曖昧になり忘却していく。忘却とは善いことである。生死、美醜、善悪の境界が薄れ何時か無くなっていく。今持ち合わせた、歓び悲しみ怒りの感情が曖昧な過去になり無くなっていく。私は想う、忘却は東洋思想の根源と。西洋思想は総てを善悪に分け、決して忘れ様としない。悲しいことではなかろうか。
 過ぎたことを忘れないよりも、忘れていく事の大事さを今私達は忘れていないであろうか。

  亡くなった家内ともよく喧嘩をした。今、幾ら思い出そうとしても判然と思い出せない。ところが、其の反対も然り。単にボケの始まりか、ハテ

  お参り その8 本編

  今、手を繋いで歩いた喧嘩相手に、
その時手持ち無沙汰だった片方の手が役に立つ。
合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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