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第26稿 要らぬ事を言います

 先般、思いも掛けず、カメラ一式を手に入れた。当然中古である。
 そう熱を帯びる程夢中には成れないが、デジタル主流の中で未だにフイルムが好きである。

 35ミリが3台(レンズ16本)中判1台(レンズ2本)今回の4×5(レンズ4本)。つまり大判に手を染め始めたことになる。
 ふと考える、何故こんなに溜まったのか。趣味とは思っていない、コレクターでもない。他人からみればその世界なのであろう。

 昔、写真機のない時代。どのような文化、民族においても「絵」という手法で人物なり風景、生活文化を今日に記録として残している。古く中国では人物像を描いた物を「写真」と言った。
 写真、「真を写す」と言うことであるが、その時の「真」そのままを「写す」と言うことである。日本では中国の影響を受け、人物は大抵正面からである。
 それに比べ西洋では、横からが主流である。横顔のコインか肖像画を見て、当時中国の皇帝が「顔が半分しかない」と言ったそうであるが、未だ西洋のコインの人物像は横顔であり正面に近いモノは余り見受けられない。

 マハトマ・ガンジーさんのコインは少し斜めと記憶している。さすが西洋と東洋の間と言うことか。立体的にみれば、横か斜めと言うことになる。ふくよかな顔立ちを絵画的に捉えるのでは無く、「人」を正面から捉えその人の「生き様」を探るのが東洋的と言うことか。関係ないが、日本のお札はたいがい少し斜めです。

 日本のお寺では、中国の寺院に習い歴代和尚さんの肖像画を法事の席に本堂中央に掛ける。それを私どもは「頂相」(ちんそう)と呼ぶ。今日、葬儀には欠かせない故人の遺影と同じと論じて善いかどうか甚だ不識ではあるがその類である。大正時代の頃より亡くなられた方の、姿を後日油絵にする事が流行した。未だに油絵を仏間等に掲げているご家庭をお見受けをする。お金持ちでなければ出来なかったことではあるが・・・。

 また、歴史上の人物のお姿もすべて当時の絵師によって描かれている。絵師のことを中国の表現では「写真家」という。尚、頂相に描かれる和尚さんは昔は真っ正面から。今日は少し斜め。になっている。

 要らぬ事を言います。その時その時の写真を時々残しておきましょう。いざの時皆さん方困っています。正面からでなく、少し斜めがその人となりを伝えてくれる様に思います。出来れば写真館で残してもいましょう。ただし、中判や大判は皺はもちろん白髪に至るまで写してくれます。用心して行ってください。

   思い出せば、家内は写真に撮られることがあまり好きではなかった。子供との写真は数多く残っている。一人だけの写真は、極端に少ない。一緒になって2人で映っている初めての写真は、正月に道場に挨拶に行った時偶々同参(どうさん・道場での同級生)和尚に写してもらった。フイルムは無い、手元には原画もない。0と1のデーターで残っている。原画は龕に入れて燃えてしまった。
 平成20年・佛歴2551年、祭壇に違う写真を入れ替える。
 新しい、写真は無い。すべて過去の「真」の残骸である。それでも印画紙の上に現れれば、その時の「真」は生きかえる。
合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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