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第22稿 如来の智慧徳相から見えてくる「命」-2

 先日6月晦日(30日)は「夏越の祓え(なごしのはらえ)」。
 多くの神社では直径1丈(約3メーター、材料は茅や藁)程の「芽の輪(ちのわ)」を本殿正面にこしらえる。 平安時代の頃より始まった行事と聞く。

 暮れにるもある。12月晦日(30日)は「年越しの祓え」。 この日に合わせ人々は「芽の輪」を潜る。輪を左回り、右回り、左回り。3度潜る。
 今日では、厄払いはいいとしても、無病息災を願うなど自分にとって都合のいい解釈をする事が多いがそうではない。半年ごとに「穢れや罪」を祓う日である。「夏越の祓え」を七夕に合わせる神社も多く見かける。

 ついでながら、師走の晦日「年越しの祓え」、大晦日「除夜の鐘」元日「初詣」と言う順でお参りをする。が、今は村落共同体としての宗教行事を離れ伝統や習俗の性格を失いつつ(「神社合祀令(明治39年発令、一町村一社という神社合併命令)」に対して南方熊楠は反対運動を行う。時代も社会背景も違うが、今彼が生きていればどの様に発言したであろうか。時代の流れという言葉では割り切れない、多くの宗教行事は「観光」と言う人集めに成りつつある事は事実である。

 さて、神前にて執り行われる厳粛な祭儀の意図は何か。「神様の前で我を棄て自己を否定させる事により本当の自分を見つけ出させる」事と、以前宮司さんに教えて頂いた。「この主題が、今日の神社の祭礼に欠けている」とも謂われていた。

 妄想と執着は意識の世界、意識は対立の世界。と前々回より繰り返しているのであるが、「夏越の祓え」も同じ事である。

 我々は、今の自分に気がつくまでに自我に目覚め、あたかもそれが本当の自己のように理解しているが大きな誤りである。自我に目覚める前の自己を見つめ直す時間を持つ生活を行うべきである。

 既成の神社やお寺に行かずとも、新興の組織に足を運ばずとも、賽銭、布施、寄付金もいらない。寝る前に布団の上で背骨をのばし、起きて寝るまでの行いを振り返るだけでよい。振り返るとは反省である。反省から感謝が生まれる。茅の輪潜るも、坐禅するも、同じ。まずは自分(みずからをわけいる。私は何者か。私とは誰か。)を見つめる事である。

 自己を見つめると、自己の内(なか)には、名前もなく、姿もなく、ナニモノにも束縛されない存在に気づく。その存在は、景色・・。音・・。・・・と生と死を離れた永遠なる生命になる。。わずかでも意識(自己)が動くとそれは、妄想と執着の世界。対立する世界になってしまう。
 おもしろい事に対立する意識も対立しない意識も一つになって動いている。故に、自分の影を踏めないように、探せば探すだけのたうち回る。探す必要は無い、気が付けばよい、そのままで良いのである。対立する「生と死」が別物でないように。分けているのは、我を棄てる事無く、自己を否定しないで、柏手を打ち、合掌している貴方であるかもしれない。

ダイモン 合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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