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第21稿 如来の智慧徳相から見えてくる「命」-1

 大国の長たる人物も、名も知れぬ野辺の生き物も同じ命を与えられている。
命には変わりない。
 有史以来、命は命を取り込むことによって生命の維持、進化は進んできた。

 人間は地球上で一番歴史の浅い生き物だそうだ。歴史の浅い生き物は器用に意識と欲を使い短時間で文化・文明を発達させてきた。

 西洋では人間は神との契約により総ての生き物を統括する権利を受け取る考えを持つ。東洋は森羅万象自然(じねん)としてあらゆる物を別々の存在としてではなく同根として見つめていく考えを発達させてきた。

 急速な文化発展の中、東洋においても西洋的(神との契約は関係なく)に、人間を中心に物事を考える構造で社会は動いているように感じる。しかし、その物事に首をかしげる人々も少なくはない。たとえば、自然保護を訴える人々の多くも人間を創造主の立場のごとく別の角度から活動をされている様に私は思えて成らない。

 前稿にて「妄想と執着は意識の世界、意識は対立の世界」と文をのせた。対立する意識。正反対の意識、考え、思考、思想、……言葉の理屈では何とでも表現できる。
 確かに現実の生活では対立的思考で物事を判断する。損か徳か。善か悪か。別におかしな事ではない。あくまでも自分を中心にした感覚である。
 問題は、その感覚の向こうに相対する存在は含まれていないこと。厭な言葉で言えば自己満足的思考に他ならない。それが嬉しいこと、悲しいこと、面白くないこと、様々な感情を発しても同じである。つまり、自己が生み出した感情を省みないからである。

 では、対立のない意識・感情とはどういったことなのか。森羅万象同根と先ほど申し上げたが対立する意識から離れ、対立する意識の壁を取り払うことである。
 24時間その意識から離れることはできない。しかし、24時間その意識を動かし続けいてるわけではない。自我の意識を、自我と言う主観を客観的に見ることができれば自己を確立できる。

 我々は自己を掘り下げ自分は何者かと言う問題意識を持つ時間を生活の中で持つと言う事をしていない。肩書きが私ではなく、性別も私ではない。まして名前が私でもない。意識感情が私でもない。よくよく掘り下げると、胸を張って生きているのは誰か答えを見失う。
 とことん突き詰めていくと私は誰か判らなく成ってしまう。宙に浮いた様な意識が突然、今までに無い感覚に目覚める。対立していた感覚が無くなり今まで自分を包んでいたモノが消え去り、目に見えるモノ、耳に聞こえる音、五感に触れる総ての存在は一つになる。
 六感は風そのモノの存在になり、音そのモノの存在になる。その感覚は一瞬である。が、体験は記憶は消えない。その一瞬に対立する意識は消え去る。目が覚めたと言われる通りである。自我に目覚めるのではない、自己に目覚めるのである。

 釈尊は十二月八日の明け方明星に自己を見いだされ、今日に至る二千五百年間誰かがその意識を継いでいる。

つづく 大門合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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