第9稿 生と死
生と死は別の次元ではない。
生死は表裏一体である。そう言ったことは、誰しもが考えもし文章にしている。が、肉体的な生命、精神世界の観念の延長線上で理解されている内容であろう。
禅家に「生死脱得(しょうじだっとく)」と云う言葉がある。生死は「いきる」「しぬ」ではなく「苦しみ」と訳を付けるのが良い。「苦しみから脱出」と成るが、肉体とか精神とか、相対的な世界での理解は言葉遊びに終始する。
何からの脱出なのか、「自己(自我)という殻」である。自己という肉体、自己という精神。からの脱出である。
悲しきかな我々は相対的感覚で歳を取れば取るほど物事を判断している。 暑い寒い。大きい小さい。きれい汚い。損した得した。私と貴方。しかし、赤ん坊の時は相対的感覚は持ち合わせていない。知らぬ間に身についた感覚からの脱出、開放を「脱得」。
芸人さんでも、芸術家でも、特に坊さん。底が抜けなければ本物にならない。底が抜けるまでは、何かの模倣である。先達の身体の動き、癖、言葉使いの模倣である。岡本太郎は「芸術は爆発だ」と作品以外に言葉にも残した。Andy WarholはCampbellsの缶を並べた。作品の色使いやデッサン、構図に執われると深い内的・精神面を見ることは出来ない。
下手な芸術論はやめて
自我は、私と貴方を分け隔てる。生と死を分けて考える。肉体と精神と分ける。この自我が無くなれば、どうなるか。分け隔てると言うこと自体無くなる。
対立のない世界。荘子は、「天地一指、万物一馬」と云っています。指と馬を外して見てください天地が一つ万物が一つ。一つもいりません。天地も万物も無くしましょう。ついでに、私も無くしましょう。生も死も有りません。自我から解放された私です。我々は、その心境を「死にきる」と言葉に表します。その死にきった心境で生き返るのです。
禅における「死」は自我にまとわりつく意識を総て捨て去る事です。自分を否定し否定し否定し尽くしたところから生き返る。そこには、自我にまとわりつく生死(対立する苦しみの世界)は有りません。真の自由人の姿があります。
禅の厳しさは、質素な生活ではありません。規則の多い生活でもありません。暖房も冷房もない生活ではありません。テレビで見る雲水生活では有りません。
自分の中で、自分と言う肉と肉のせめぎ合い。迷う命と迷わぬ命の峻烈な対峙です。
禅に興味を持つ人々の世界だけでなく、興味が無くても総ての人がこの門をくぐり、今日の活力とし、明日の活力にしなくてはいけません。一度死にきって生き返ってくる。是が高い次元で本当の命を体得、理解すると言うことです。そこに目を向けず「安楽死」「尊厳死」を論議するのは甚だ低い次元での論議で有ります。
生と死は別の次元ではない。論議する次元では無かった。
だいもん 合掌
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