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第8稿 安楽死

来月 4月8日 降誕会 多くの寺院で今日は「花祭り」。毎年、我が寺もしてはおりますが、去年は一人も来ませんでした。で、一人で甘茶湧かして一人で飲んでいました。今年はどうでしょうか。コマーシャルの問題でしょうか、興味なし、線香臭いの嫌い。何でもかまいません。
 「この秋は 雨か嵐か 知らねども ただ日々の 田草取るなり」昭和天皇の歌であったかな。日々の行いをしているだけ。どうぞ皆さん、お近くのお寺に行って甘茶をもらいませう。

前稿まで、釈尊の命に対する考えを説いてきました。

今日は、懺悔 妻に行った、安楽死

安楽死は、殺人である。間違いなく「人殺し」である。相対する人の、痛み、苦しみを如何に大義名分振りかざしても、人殺しである。爾来如何を書き出したのは、それが理由でありました。
 自分でも左右できない、他人も干渉できない。それが「命」です。尊厳な命とはそういうものです。なかには、自損死を試み、また、死に至る。年間3万人からの人が、自ら命を絶っている現実も事実であります。
 日本では「死刑」は現行法で許されている。被害者の縁者からは極刑を求める事も多く聞きます。しかし、我々は日本に死刑囚が何人居ているのか知る人は少ない。感情論は別として、如何に悪事を働いたか知りませんが、「死刑」も人殺しと何ら変わりはない。

森鴎外作「高瀬舟」(大正5年1月、中央公論発表)は安楽死について是非を問う小説として有名であります。結論のでない問題としてこの小説の安楽死は今日まで、幾度となく議論された事でありましょう。高瀬舟に見られる安楽死は、他人には其の是非を問えないのです。是非を問えない問題であるから、問題でもある。

目の前で、間違いなく死ぬと分かっている人が、もだえ苦しみ、のたうち回っている人が、貴方に訴えます。「死にたい。殺して。」貴方は、どうしますか。その意志を聞き届けますか、その場を逃げ出しますか。
 私は、妻の言葉を実行した。間違った事をしたと理解するには、時間は掛かりませんでした。それから、数時間後明け方、妻の家に「すいません、貴子を殺しました」と電話で連絡をしたわけです。個人的には私は人殺しと今でも理解しています。しかし、今日日本の社会では至って当たり前に安楽死が行われつつある。今、その場に出くわしたならばどうするか、医学的な裏付けがあろうと、社会的制裁が無かろうと関係ない。宗教的な捕らえ方を置き去りにしてはならない。

「命」尽きるまで、私は、のたうち、うめき、転げ回わりながら、感謝と反省を忘れず生を感じていたい。

来月、4月8日は釈尊の誕生日。

次回、「死」について・・・生と死は別の次元ではない。
 だいもん 合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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