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第10稿 「死」をどう捉えるか

さて我々にとって、一人一人にとって現実的な「死」をどう捉えるか。死は未知なる世界であり、畏れる事象であるのか。
 日々常に死を意識して生活をする人は少ない。また、死の報に接しながらも必ず訪れる自分自身の姿とは観じえない。対物的に映る景色のような映像であるのかも知れない。
 病院にお見舞いに行っても、自身が病に伏しお見舞いを受ける立場には誰も想わない。老人と相対しても、隣に座っても自分は歳を取るとは意識しない。もしかすると、理解できない現実を、体験し得無い(体験した事のない)現実を受け入れる事は非現実的な事で有るのか。

世の中は進み、特殊な病気についての説明、治療の方法。時には発病後の生存率までインターネットの世界では簡単に検索できる。医学的な知識はなくとも、文章を読み返せば医師の宣告以前に情報として読むことが出来る。時として、知る必要のない非情な事実でもある。

妻の場合は、医師の宣告以前に遠い時間でない、紛れもなく訪れる「死」を夫婦共々知っていた。が、事実医師からの言葉に驚愕はしないものの目の前に突きつけられた残りの時間の現実は、認識以前のパラドックス的葛藤に近いことであった。死を恐れるのではない。どう立ち向かうのかでもない。
 どちらか言えば、淡々とした部分が多い。妻へ医師からの宣告を伝えても、2度3度重ねて聞かされるのと変わりはない。しかしながら、残りの少ない時間をどの様に過ごすか、余りにも考える範囲の広さに躊躇したのではないだろうか。
 その様な中、入院している病棟に備え付きと言うよりも利用者の置いていった本を読み出した。元来推理小説を好んで読んでいたのであるが、曾野綾子氏と松原泰道氏の本に痛く傾倒した。特に松原泰道氏の本は感じるところが多かったようで、手紙などにその感想を綴っていた。

死を考えるのではなく、今生きていることに目を向ける。如何に死ぬのではなく、如何に今を生きるか。一瞬一瞬の取り返すことの出来ない今を脇目も振らず本当に過ごせるのか。今生きていることの喜びと、感謝を本当に観(感)じられるのか。
 誰しもが、病気も怪我も歳を取ることも、まして死ぬことを望まない。なぜか、受け入れたくないからである。意識が働き人は損得を考える。損得勘定がどちらが得でどちらが損か、を分けていく。意識の中で対立した物事を選り分けていく。その中に「生と死」がある。生と死を別の物として捉えていくから、特に死に対して拒否をし拒否できない死から逃れようとさらに苦しむ。

誰しも死にたくない。何時までも元気に生きていたい。万人の願いであろう。そう願うのは、自己の理解できない死を意識するからである。生を意識せず、死を意識せずに我々は今を暮らしている。目の前に死の現実を突きつけられ、死を意識した時、素直に受け入れられる様に、この問題に回答を出すべきである。

死とはどういう事なのか。年老いてから考える問題ではない。しかし、若い間は自己の死を感じることはない。赤ん坊は、生も死も考えない。

生と死の線を引き、別の次元と考えるところに大きな問題がある。同じ次元で同じ事象として見ていくことも大事である。
大門 合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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