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長ったらしい名前「瀰漫性汎細気管支炎」、今や簡単にインターネット上で情報の閲覧が出来るので説明はしない。強いて言えば、日々症状は悪化し肺がカチンコチンになって息が出来なくなり、すぐに炎症で熱が出て、痰がすごく絡む。DNAの関係でモンゴロイドに発症する。エリスロマイシンにより症状の悪化は遅らせることが出来る。
 色気のない話でありました。


第2稿

2002.8.15
 宗教の持たない私が寺という環境で、一番感じたこと。それは死。貧富の差、地位名誉の有無、年齢、職業、友達が多い少ない、自分が不幸だと感じている人、幸福だと感じている人、どんな人でもいつどこで訪れるかわからない。またそれは、誰にでも平等にあたり前の事。
 生も平等で当たり前なら、死も平等で当たり前。その一瞬に総ては始まり、終わっていくのです。唯、何が違うのかと言えばそれは、その人の生死を迎えるに立ち会った何人もの生きた人たち。その人達から生まれたときに、オギャーと出てきたときの環境。また、それは生まれた人達もまたその前の人(先祖)に迎えられた光景。死ぬ時も生きた人に、その人の死が残る。生は迎えられるから喜び事で、死は送ることだから悲しむことではない。「オギャー」と生まれた時その人の周りがどう感じるか。「ご臨終です」と言われた時、そのまわりがどう感じるかで、生死を迎えた人にはそれが今
(2002.8.16am4:20)無だと感じられる。だから今ノートに書いている。

後半続きは「爾来如何−3」

亡くなる17日前で有ります。この頃は変に元気な日が有りました。お見舞いに訪れた、大阪の友達と結構話もしていました。お盆の行事も終わりやれやれと言うところでした。子供三人には、お盆の間一人ずつ交代で病室に泊まらせ、なにするで無く母親と同じ空間に居させました。
 日付は覚えていません、一番上の群生を病院において寺に帰りそれとなくテレビをつけますと、小田和正のコンサートを放送していました。オフコース時代からの熱烈なファンです。知らせてやろうと思いましたが、やめました。次の日、「群生と昨晩、小田和正のテレビを見た。」「こんなところで、一緒に見るなんて不思議やった」と言ったのを覚えている。母親の影響でしょう、子供三人共「小田和正氏」の歌をよく覚えている。平成十二年、京都でのコンサートの切符を手に入れ一番後列に並んで座ったことが一度だけあった。

約三年間、入退院送り返しの生活。大学ノート約六冊分の内、亡くなるまでの六ヶ月程の短期間に集中して書き留めている。執拗に、文を書いた。といって過言ではないだろう。それは、気持ちを落ち着かす方法でもあった。また、たった今本当に生きているという確信を病室(個室)に一人の時間、訪れるかもしれない孤独な「死」の恐怖と対峙している時間でもあった。

日置川畔住 だいもん 合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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