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道草其の十
2009年の始まりに
『質問! 養老孟司さん』

2008年が終わろうとしているある日、
夕食後の散歩から帰って、
ブックオフで105円で買った
養老孟司氏著『バカの壁』(新潮新書)を読み始めたら、
まえがきの文章でえらくひっかかってしまって、
それが頭の中でグルグルと回転し始めて止まらなくなってしまった。

「もともと問題にはさまざまな解答があり得るのです。
そうした複数の解を認める社会が私が考える住みよい社会です。」
(まえがきP5より抜粋)


うむ、素晴らしい社会だな、と一瞬は思う。でも何がひっかかるのだろう?

たとえば
近所で問題になっている「野良猫」の問題。
何人かの人たちが野良猫たちに餌をあげている。
飢えから免れた猫たちは繁殖し、家々の庭に糞尿したい放題。
糞尿はたい肥となり、都会の庭の土を豊かにする。
いやそうではなくて、
「クサイ!」。
ただただ「クサイ!」。

猫はカワイイ。
野良猫も猫、やっぱりカワイイ。
でも家の庭に糞尿しないでねと言っても通じない。
猫だから。

電信柱には「野良猫に餌をやるなら、
その猫たちの去勢をしてください」の看板が、あちこちにつらさげてある。

問題は提起されているのだが、解決にはいたっていないのだろう。
ということは複数の解(らしきもの)が存在してはいるが、
それは「クサイ!」の解決には機能していないようだ。

因みに僕の解(らしきもの)は
<こういう世界だと受け入れて、
せめて自分の庭で猫がウンチやオシッコをできないような、
しにくいような環境にしよう>
具体策=やわらかな土の面がお好みの猫たちに対処して、
見た目にもグッドな石を敷き詰めてゆく。

でも「クサイ!」の解決にはなってないけど、ね。
ちょっとした隙間にのぞいている土にウンチするし、
どこかでしたウンチやオシッコの臭いが風に運ばれてくるから。

ここで例えば『国』が
「登録されていない動物たちは捕えて抹殺します」
という解を引っさげてやってきたら、
「クサイ!」は一気に解決されてしまうだろう。
が、それはなんかいやだなー。
野良犬なき後の野良の牙城は
猫たちに守ってほしいという気もどこかにあるし。
(2年住んだ鎌倉では野良リスと出会った。
6年半住んだ練馬区石神井では、
南国産の鳥たちが野良鳥となって飛んでいた。)

さて、
『野良猫の糞尿』という問題に対して、
いったいどういう解があり得るのでしょう。
そしてこの問題に対して
「複数の解を認める」などということは可能なのでしょうか。

人生にはこういう問題が山積しています。
そもそも議論の場が不在している生活の現場は
「複数の解を認めあう」などいうこと以前の有り様ではないですか?

それと
まえがきの後半には
「人生でぶつかる問題に、そもそも正解なんてない。」とあります。
僕はヤレヤレと思います。
何故人生に試験の比喩を用いるのだろう、
人生を正解や不正解などで語ってはいけないと
何故言えないのだろう。

「解」を求めて僕はこの人生を歩いているのだろうか、
歩いてきただろうか、
これからも歩いてゆくのだろうか。

猫の糞尿はクサイけど
温暖化がすすむ地球はイヤだけど
戦争なんてまっぴらごめんだけど

じゃ、どうする?
じゃ、どうする?
じゃ、そうする?

と、悶々としたり、何かをはじめてみたり、つづかなかったり、
笑ってみたり、泣いてみたり

養老孟司さん
いかがでしょうか?
「複数の解を認める社会」の構造と
具体的にそれを可能にするシステムを
是非教えてください。

道草其の四十
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