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004 『アグラ、幻、シルエット』-その1-



続いていた振動がぴたりと止んだ。
ふと、目を開ける。
肩や背中が痛い…
いつの間にか寝ていたようだ。
頭がぼーっとする。

アグラに着いたかなと、意識がはっきりしないまま車窓から外を覗く。
空はだいぶ暮れて、もうすぐ太陽が沈みきってしまうところまできている。
道路を走る車には、もうライトが点いている。

ふと、ミスタルシンが運転席にいない事に気づく。
買い物にでも行ったのだろうか。

そのまま車内でぼーっとしていた。
しばらくしてコン、コンと音がして、
そこにミスタルシンが立っていた。
出てこいよ、というハンドサインをしたので、
旧式の重いドアを開けて車から降りる。
地面に足をつけた瞬間、ズシン、と体が沈みそうになる。
まだ体の方は眠っていたらしい。

「良く眠れたか?」
「まあまあかな。」
「そうか。」

ミスタルシンは、長い運転で疲れていたせいなのか、
それとも、元々その質問が意味のないものだったせいなのか、
そっけない返事をして、ホテルにさっさと入っていった。
そしてフロントに着けば、既にミスタルシンがお金を払っていた。
ここで僕は、既にデリーの事務所でホテル代込みの金額を払っていたことを思いだす。

決して蒸し返したくない記憶。
踏み荒らされた川底の砂のように胸の内に舞い上がってしまった。
撫で付けるように気持ちを落ち着かせつつ、
ミスタルシンに案内されて階段を三階まで上る。

チェックした部屋に入ろうとすると、中から話し声が聴こえたような気がした。
(誰かいるのか?)
頭に疑問符が浮かばせながら、一瞬ためらったのちにドアを開ける。
案の定、先客がいた。
そこには2人の子供を連れたインド人の家族がくつろいでいた。
僕を見た途端、家族の会話はぴたっと止み、全員の視線が僕に集まる。

「あれえ?」

思わず僕は、場にそぐわない素っ頓狂な声を日本語で出してしまった。

「ここが僕の部屋だって言われたんですが…
 ちょっと下へ行って確認してきます。」

部屋を間違えたのは相手の方かもしれないのに、
そんなことはまったく考えずにフロントに向かう。
確認してみると、フロントがインド人家族への部屋案内を間違えたらしい。
そういうわけで、その家族には移動してもらうことになった。

(僕を違う部屋に案内すればいいんじゃないのかな…)

と思ったが、もう、いちいち何か言うのも疲れていたので成り行きに任せた。

再び階段を上る。
ホテルマンが事情を説明して、インド人家族が一旦広げた荷物をたたみ始めた。
僕は部屋の前に立ちながらその様子をぼうっと見ていた。
移動する準備が整ったようだ。
ぞろぞろと僕の顔を見ながら、迷惑そうな顔をして通り過ぎていく。

(そんな顔でじろじろ見るな…)

だが、最後に部屋を出た女性が謝罪をしてきた。
その家族の母親だった。

「ごめんなさいね。」
「いえ、とんでもない。
 ありがとうございます。」

そうして最後に、にこっと笑いかけてくれた。
ああ、礼儀正しい人だな、と思う。


ホテルマンがベッドメイキングをする、というので部屋の外で待つことになる。
そこから見える町の景色はとても清々しいものだった。
牧歌的な空気が漂い、それはもう東京の、圧迫されるような喧騒の感覚や
日々を拘束していた鬱陶しいものは皆、どこか遠い所へ行ってしまっていた。

「ベッドメイキングに少し時間がかかる。」
というホテルマンの言葉を受けて、フロントへ降りることにする。

「三階に上がる前に言ってくれ…」

ぶつぶつ呟きながらフロントで一服していると
ニコニコしたミスタルシンがチャイを持ってやってきた。

渡されたチャイを飲みながら、煙草を吸って時間を潰す。
天井では音もなく、プロペラが回っている。
たまに日本のレストランの天井でも見かける、あれだ。
これが結構、涼しくしてくれる。

ミスタルシンが無言で何かを求めてきた。
人差し指と中指を立て、口元に近づけたり離したりしている。

(ああ、煙草のことか。)

僕は自分の持っている煙草を一本渡し、火を点けてやった。
サンキュー、と嬉しそうにニコニコ笑うミスタルシン。

(インド人って、人の好意に甘えた時の笑顔が本当に無邪気なんだよなあ…)

つられて僕も口元がゆるんでしまう。

煙草を吸い終わると、ちょうど準備が整ったようで部屋へ向かう。
(今度こそ大丈夫だ)
と、部屋に入る。
扉を閉め、リュックを下ろしてベッドに倒れこんだ。
しばらく天井を眺めながらぼうっとする。

「あ。」

藤原新也の「印度放浪」を読みかけていたことを思いだして、リュックを開く。
厚さ5cmくらいはあるので読み応えがある。
なによりインドで、インドについて書かれた本を読む、
という行為が贅沢に思われて仕方ない。
悦に入りながらページをめくり始める。
しかし疲れが溜まっていたせいだろう、少し経ったら寝てしまった。

そして扉をノックする音で目を覚ます。

コン、コン。

(誰だろう?)

重い身体をずるずると入り口まで引きずってゆく。
扉に付いた穴から外を見るとミスタルシンが立っていた。

「夕飯を食べに行こう。」

お腹が空っぽだったので快諾する。


連れて行ってくれたのは「maya」というレストラン。
幻、という意味だそうだ。
ヒンドゥーの宗教観からとったものだろうか。
この世は、幻。



<つづく>

005
『アグラ、幻、シルエット』
-その2-

004
『アグラ、幻、シルエット』
-その1-

003
うそぶく人、疑う僕

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