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005 『アグラ、幻、シルエット』-その2-



二階のテラスにあがる。
それぞれのテーブルにはキャンドルが置かれている。
人為的なものだけど、インドで初めて出会った幻想的な光景だ。
この場所だけ、町全体から浮き上がっているような印象を受ける。

そのキャンドルに照らされて、ぽつぽつと人影が見える。
なかなか人気のようだ。

ちょうどテラスの半分ほどを覆うようにして生えている樹があった。
気になって聞いてみると菩提樹だという。
仏陀がその樹の下で悟りを開いたとされる、菩提樹。
何か思いそうになったが、それはもやもやしたままで何も掴めなかった。
アグラの、ただのレストランの菩提樹だから、それは当たり前だろう。
何かを求めていたいからそんな気がしただけだ、と思う。

席は菩提樹のすぐ傍、外の景色が見えるところに腰を落ち着かせる。
座るなり、ミスタルシンは水を頼んだ。
僕はあまりお腹が空いていなかったが、瓜のサラダを頼む。
「そんなものでいいのか?」
「お仲は減っているんだけどなんだか食欲は湧かないんだ。」
「そうか。」
と言うと、ミスタルシンは何処かへ行ってしまった。
(お前はどこへ行くんだ)
と思ったが一人になれる方がいいと思い、そのまま見送る。
僕は一人、ぼうっとしながらキャンドルの薄明かりの中、
夜空や菩提樹を眺めていた。

しばらくして二つ離れたテーブルに、カメラを持った女性が座った。
妙に気になって、僕も自分のカメラを抱えながら
「何を、撮ったんですか?」
と、話しかける。
するとにこっと微笑んだ。
綺麗な顔立ちをしているな、と思う。

首から提げているデジタル一眼レフ。
差し出されたそのカメラはずしりと重く、NICON製だった。
女性には扱いづらそうなほどの重量だ。

自分が撮っている白黒の写真を想像しながら彼女の写真を見る。
やっぱり白黒の方がいいと思うんだけどなあ、と思う。
特にインドでは。
そんな気がするだけなのだが。



聞けば、彼女はフランスから来たという。
歳は僕と二つ違いの年上だ。

「あなたのも見せて欲しい」
「僕が撮っているものはフィルムだから見せられないんだ。」
と言うと、とても残念そうな顔をした。
「どうして白黒で、しかも今時フィルムで撮っているの?」
と聞かれる。

興味本位で始めた写真をフィルムで続けている理由。
それは僕にとって曖昧なものでしかなかった。
ただ漠然と、
<自分で撮ったものは自分で現像してみたい>
<自分で写真を一から十まで試してみたい>
と思っていただけだ。

実際やってみれば、不確定要素の多さや現像時の試作の幅が広くて深みがある。
それはデジタルに勝るものだ、と思っていた。

そうしたフィルムの良さを伝えようと試みる。
だが、語彙が足りない事と虚栄心が邪魔をして、彼女の問いに上手く答えられない。

このご時世に自分があえて選んだのは白黒かつフィルムだ。
その自尊心を傷つけられたくない、と思った虚栄心。

なぜ、そんなことを思ったのだろう。
そんな余計なこと、考えなくても良いはずなのに。
自分がやっていることは、そのままで、自信を持って良いはずなのに…

ぼくが上手く答えられないでいると彼女は一言、
「ふーん。」
と答えたきりになってしまった。
そうこうしていると注文したサラダが運ばれてきた。
ぼくは彼女にじゃあ、と言って席を離れようとした。

「あっ、待って。
写真、現像できたら見せてよ。
これ、アドレスだから、送ってくれないかな。」
と、紙切れを渡してきた。
あまり納得していなさそうだったけれど、興味は持ってもらえたようだ。
少し嬉しくなる。
僕はその紙切れを喜んで受け取った。
「ありがとう。またね。」

平らな白い皿に螺旋状に飾り付けられたその瓜には
少しだけ塩が振ってあって、横にライムが付いていた。
そのライムを搾って、しゃく、しゃくと音を立てて食べたその瓜の食感は、
日本のきゅうりに良く似ていた。
いや、それよりも少し水気が多いように感じる。

食べたのか食べていないのか…
自分でもよくわからない量の夕飯を済ませる。

食べ終わって、ふと
「菩提樹の葉を本の栞にしよう。」
そう思い付いて綺麗なものを選んで何枚か拾う。

そして会計を済ませ、レストランの門をくぐる時のこと。
「じゃあきみはどうしてデジタルで撮るの?」
さっきの女性に、そう聞けば良かったと後悔した。


寝室に入り、ベッドに横たわり、また本を開く。
しかししばらく辛抱しても一向に文字が頭に入ってこない。
そこでカメラを持って外へ出ることにしたのは、既に夜の10時。
「この時間になったら、あまり外を出歩かない方がいい。」
ミスタルシンがそう言っていたことを思い出す。



人通りはまばらだ。
街灯も少なく、時折通り過ぎる車のヘッドライトが眩しい。
ホテルの目の前にあるチャイ屋が、こんな時間なのにまだ開いている。
歩き始めてすぐに思いだしたのは、野犬がいるということだ。
野犬に絡まれるのは酷く恐ろしい。
狂犬病の犬は、夜に凶暴化する。
大きな通り沿いの、できるだけ明るいところを歩くよう心がける。
しばらくして、走る車を猛スピードで追いかける犬がいた。
その時、その犬が一瞬こっちを見たような気がした。
震え上がり、急ぎ足でホテルへ戻る。
その犬は、狂ったように吠えていたのだ。
誰が見たって怖くなる。
やっとホテルに着いた頃には11時になっていた。



チャイ屋はまだやっていて、一服するのにちょうど良かったので一杯いただく。
赤子の拳ほどの、小さな素焼きのカップ一杯のチャイ、2ルピー。
日本円にして4円。
熱いので、ゆっくりすする。

ズズッ
ズズッ

(美味い…)

古びたレンガに腰掛けて煙草に火をつける。
煙を吐きながら空を見上げると、星がいくつも見える。
東京ではまず、見ることの出来ない夜空だ。
吸い込まれそうなほどに綺麗な漆黒。
夜空へ向かって落ちていく自分を想像する。
くらくらして倒れそうになった。

ふとその時、周りの空気に妙な違和感を感じた。
仰いでいた顔を違和感のある方へ向けると、おじいさんがいた。
椅子に腰掛けたおじいさんが、身振り手振りで何かを伝えようとしている。

「…。
 ………!」

僕が持っているカメラを指差している。
これ?とカメラを指差すと、大きくうなずく。
英語が話せないようだ。
近寄って見せてあげると、とてもはしゃいだ。
皺の多いその顔を、大きくクシャッと歪ませた表情をする。
笑ったのだ。
その表情は懐かしがっているようにも見える。
カメラをやっていたのかもしれない。

煙草を吸い、チャイも飲み終え、ホテルに戻る。
フロントへ続く階段を上る時、何かが気になって振り返る。

暗がりにそっと座る、先程のおじいさんだった。
街灯に照らされてシルエットになっている。
影は斜めに伸びて、ゆっくりと、ギシ、ギシと椅子の揺れる音が聴こえる。
どこかで犬が遠吠えをした。

衝動が抑えられなくなって、思わずカメラのシャッターを切った。



レンズに蓋をしながら、僕はおじいさんを見ていた。
そして一方で、レストランでの彼女との会話を思いだしていた。


005
『アグラ、幻、シルエット』
-その2-

004
『アグラ、幻、シルエット』
-その1-

003
うそぶく人、疑う僕

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