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第四回 チンギス・ハーンのモンゴル

私にとって、モンゴルは最も興味深い国の一つだ。ユーラシア大陸のほぼど真ん中を占めているのだが、上と下からロシアと中国という大国に挟まれて、国際社会ではどちらかといえば影の薄い存在ではある。それもそのはず、社会主義国から資本主義国に転換したのは1992年、わずか13年前である。発展途上国から中進国への脱皮をめざして政府はさまざまな政策を打ち出しているが、社会主義時代の残滓はなかなか払拭できずにいるし、政治家、官吏の汚職は一向に減らないという悩みを抱えているようだ。ODAを含む日本の経済協力、技術協力は、モンゴル国の将来におおきな役割をもつはずだ。


上空から見るゴビ灘

面積は156.4万平方キロ、人口250万人だから、人口密度から言えば日本の約4倍の国土に2%程度の人口がそれこそまばらに住んでいるということだ。しかし国土の3分の2、すなわち100万平方キロがかの有名なゴビ砂漠が占める。砂漠といってもサハラ砂漠のように、延々とした砂丘の連続ではない。「ゴビ」とはモンゴル語で「短い草が疎らに生えている土地」という意味で、実際には山や森、 草原であり牧畜に適した土地も多く、珍しい動植物も多いのだ。写真のように、雲の影が落ちている砂地は、 むしろ赤土といったほうが正しく、だからゴビは砂漠よりはごび灘(たん)と称せられる。アフリカやアラビアのようなイメージの砂漠はゴビにはたった 2%しかないのだという。

さて、モンゴルに惹きつけられるわけは、何といってもチンギス・ハーンである。この幼名テムジンという男は、12世紀から13世紀にかけて、ユーラシア大陸を駆け巡って中国や韓半島はもとより東ヨーロッパの大半を版図におさめ、モンゴル帝国を打ち樹てた。帝国が彼の死後百数十年を経て解体した後も、その名はユーラシア脈々と生き続け、遊牧民の偉大な英雄として語り伝えられる。とくに故国モンゴルにおいて、チンギス・ハーンは神となり、現在のモンゴル国においては国家創建の英雄として称えられている。チンギス・ハーンの孫で、中国元王朝の創始者となったフビライ・ハーンは、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)で日本を征服しようとしたのはご存知の通りだ。チンギス・ハーンを始祖としたモンゴル帝国の隆盛は、人類の歴史のそれこそ一瞬でしかないが、あの草原から疾駆して行って世界の大半を蹂躙したという事実が、私にとっては摩訶不思議というよりないのである。

チンギス・ハーンの生年は、定説はないが1160年ごろとされ、モンゴル帝国の初代大ハーン(汗)になったのが1206年である。とすると、40歳を過ぎた男が遠征に出て何年も故郷を離れ、戦場を駆け巡るのである。こういうエネルギーに、ただただ呆然とするほかないではないか。軍事上の戦略や戦術に優れ、人を組織し統率する能力に長けていたそうだが、決してそれだけではあるまい。面白い話があって、人類史上チンギス・ハーンは自分の子孫を最も多く残した人物だそうだ。2004年に行われたオックスフォード大学のDNA解析調査で、チンギス・ハーンの遺伝子を引き継いだ人は世界中で1600万人にものぼり、アジア系のみならずヨーロッパ系までその範囲が広がっているいることが判明した。実際に、征服した国々で組織的に子孫を残す営みを自身で行っていたというから恐れ入る。

ま、チンギス・ハーンの面影はかのモンゴル国のどこにでもいろんなかたちで残っているが、それはさておき、今回は現代のモンゴルで出合った「摩訶不思議」をいくつか綴ってみよう。

草原の生首

モンゴルのほぼ中央ハンガイ地方は、気候がよく地味豊かで放牧に適していて、古来、各地に割拠していた遊牧民族の争奪の地であった。この土地に恵みをもたらすハンガイ山脈の東端にあるカラコルム(ハラホリン)は、かつてのモンゴル帝国の首都であった。1234年のことである。チンギス・ハーンの息子であり、第2代皇帝オゴタイ・ハーンがここを都と定め、その治世の間カラコルムは世界の文物や民族が集まる東西交渉を象徴する国際都市であった。カラコルムの繁栄ぶりは、マルコポーロの「東方見聞録」にも登場する。

カラコルムは大草原の真っ只中にあって、どこに立っても周囲360度眺め渡すことができる。草原に点在する白いゲル群の一つが今夜の宿だ。夕食のあと、まだ陽が高い草の海を散歩しているとき、写真の牛の生首をみつけた。すこし離れてきれいに肉を削いだ四肢が束ねてあった。たまたま途中で出遭ったドイツ人の老婦人も一緒だった。彼女は一向に驚かず、平然としていたのが思い出される。そういえば、いろんな僻地を訪れたが会う外国人はほとんどがドイツ人だった。後年、北京で知り合いになったドイツ人は、北京からシルクロードを自転車で旅する計画を立てていたぐらいで、どうもドイツ人というのは好奇心のかたまりのような人が多い。


草原の生首

で、転がっている生首を見て、鮮やかによみがえったのはその午後に遭遇した変事だった。ゲルでくつろいでいたとき、すぐ近くで異様な音を聞いたのだ。あまりに激しいので、外に出てそれが牛の集団であることがわかった。全部で20頭ほどが固まってひしめき合い、落ち着きなく体を震わせながら一斉に啼いているのである。あたかも、身も世もあらぬ悲痛というか苦悩のうめきのようにも聞こえた。理解できぬまま眺めていると、飛んできた牧童が、たちどころにそれぞれ違う方向に追い立て、やがて静けさが戻った。このいきさつが生首を見て腑に落ちたのであった。後で知ったが、モンゴルでは羊肉ばかりだったが、この日の夕食は珍しく牛肉だったのである。そのときすでに生首の分身は私の胃に収まっていたのだった。

自然の驚異

さて、翌日午後のことだ。後にカラコルムに建立された、大仏教寺院エルデニ・ゾーは郊外の草原にひっそりと広がっていた。建物全体は正方形の外壁のそれぞれに四つの門と、全体に配置された108基の仏塔により構成されている。チベットの形式を受け継いだインド仏教伝来の仏舎利塔(ストゥーバ)で、釈尊の遺骨が納められ、仏法や宇宙の象徴として礼拝の対象となっている。

寺院を訪れたのは午後4時ごろ。モンゴリアンブルーと呼ばれる、深い紺碧の空を見上げていると、にわかに巨大な雲塊が張り出しはじめた。何十キロも離れているであろう彼方にこの地では珍しく、雨が降っている様子がわかる。そして地上に落ちた雨が高温で水蒸気と化して、地面から雲の中央部に猛烈な勢いで吸いあげられているのがはっきり見えるのである。小学生の理科学習で小さなフラスコの実験でしか知らなかった、あの対流現象が大自然の舞台でまるごと見えるのだ。写真でもある程度お分かりと思うが、実際に目撃したときは、これはもう言葉も出ない感動だった。しかもかすかではあるが、吸い上げられる水蒸気の遠雷のような音が空気を裂いて伝わってくるのだ。モンゴル人は誰一人驚いてはいなかったが、約10分ほどのスペクタクルは起こったときと同様に、何事もなく消えていった。


息を呑む光景に遭遇

モンゴル街道

ウランバートルからカラコルムまでは直線距離にして約700キロである。これを4WDの車で踏破した。首都ウランバートルからカラコルムに至るルートは一本のみ。中間地点まではコンクリート舗装、といってもところどころ欠損しているのでそれほどスピードは出せないが、他に車はほとんどないので距離は稼げる。しかしカラコルムまで200キロほどのブルドから先の道の状態は想像を絶するものだった。

大草原は一見するとただただ草の海の連続である。だが、その中にはアルタイ山脈、ハンガイ山脈などに水源を発する水の流れが随所に隠れているのである。そもそも川の体をなしておらず、背の高い草の根元を洗いながら流れているのだ。よほど近づいてみないとその存在はわからない。これが雪解けの季節になると奔流となって、その勢いにまかせて進路を変えるので道路がズタズタに寸断されることになる。首都・カラコルム間の交通や輸送機関の運転者は、そのたびに最適な道筋を発見するはめになる。おまけに運転者によって、いくらでも新しいルートを開発するから、その一帯が迷路と化してしまう。

写真はその結果の一つである。日常的に利用する運転者なら検分なしに進めるが、慣れないとこういう迷路にさしかかったら、まずは車から降りて、どのルートが正しいか最後まで見極めることが肝要である。適当に推測して動こうものなら、たちまち地獄図絵となる。進むも退くもままならなくなるし、現にそういう状態に陥っている車を何度か助けもした。だが、一度定期バスが立往生しているのに出遭ったが、図体が大きすぎるし、4WDとはいえわれわれのバンではどうにもならない。もうお手上げで、運転手も乗客も大きいトラックを待つ、とあきらめ顔で苦笑していたものだ。カラコルムばかりでなく、地方へ車で旅するときには、運転手の経験をまず確かめておくのが大事である。


巨大なジグソーパズル。通り抜けるのに30分はかかる

大草原を走る道は一つだから行き先表示や道路標識の類などまったくないが、カラコルムまであと少しのところでT字路があった。大草原の基準では複雑な交差点なのだろう、そこにはちゃんと手書きの看板が立っていた。現在地からハラホリンまで2.5キロの表示と赤い線を辿ればよい、というグラフィックであった。ここまで撮影と休憩をはさんで12時間、興趣の尽きることのない旅だった。なにしろ走っても走っても風景は変わらないし、うたた寝して目がさめても周りの景色が変わらない、という経験はなかなか得られるものではない。ちょっと高い山や丘の麓には遊牧民のゲルや生活の情景が、大草原をひたすら走る旅にアクセントを添えてくれる。


行き先表示の看板。長い道のりでこれ1本しかなかった

第八回
島嶼部アジア -インドネシア-
里山で遭遇した愛すべき生きもの

第七回
モンゴルの夏

第六回
ガンジス河を下る(2)

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