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第八回
島嶼部アジア -インドネシア-
里山で遭遇した愛すべき生きもの

まずは地図をご覧いただこう。
 黄色の部分がインドネシア共和国である。経度でいえば、スマトラ島北部(2004年12月、スマトラ島沖地震による津波の被災地)から、イリアンジャヤ島の西端(パプア・ニューギニアとの境界線)まで約5,000Km、緯度では同じくきたスマトラから南端の東ティモールのディリまで約2,000Kmの領域の中に14,000もの島(世界で最も多い)が点在している、まさに群島国家である。
 航空機時代とはいえ、ネットワークは首都ジャカルタからは各島の主要都市を結ぶぐらいで、経済的に成り立たないから地方もカバーすることはとてもできない。だからジャカルタからイリアンジャヤの奥に行くには何日もかかることも珍しくないのだ。
 こういう広大な地域を国家としてまとめていくのはさぞかし困難なことだろう。


「インドネシア全図」(外務省各国地域情勢:インドネシアより)

もともとのちにインドネシアとなるこの地域に住んでいたマレー系の人びとには国家=インドネシアという概念はなく、5世紀ごろから、シュリーヴィジャヤ王国、クディリ王国、シンガサリ王国、マジャパヒト王国といった諸王朝興亡と、ムスリム商人、16世紀になると香辛料を求めて来航したポルトガル、イギリス、オランダ、ひいてはバタヴィア(ジャカルタ)を本拠地としたオランダ東インド会社に翻弄されてきた。
 19世紀にはオランダの直接統治下に入るが、オランダ人は18世紀のマタラム王国の分割支配によりジャワ島、19世紀のアチェ戦争によりスマトラ島をほとんど支配するようになる。この結果、20世紀初頭にはポルトガル領東ティモールを除く東インド諸島のすべてがオランダ領となり、現在のインドネシアの領域がひとつにまとまったわけだ。

ま、講釈はそのくらいにして、インドネシアには70年代半ばから毎年のように訪れたが、とくに98年から2001年の3年間は西ジャワ州には足しげく通ったものだ。というのも風変わりな山岳民族に魅かれて、2,000メートルの高地やジャングルを跋渉しながら彼らの生活や社会の観察し、記録したからだ。
 ひとことで言えば、近代文明を拒否している人たちなのである。電気、ガス、発動機、金属、プラスチックなどおよそ私たちが享受している文明の利器は一切拒否しているのである。文字もないし貨幣も使わない。水道もなければトイレもなく、すべて流れる川に依存している生活体系なのである。

この少数民族については興味深い題材も多いので、いずれ稿をあらためるとして、今回は、この山岳地帯を歩き回って遭遇した生きものでまとめることにする。

■西ジャワ州の山村風景

山地なので水田も階段状につくられているが、このあたりには道というものがほとんどなく、田んぼの畦道を行き来するのが普通だ。それも細くてやわだからバランスを崩すとたちまち水飛沫をあげることになる。これでは車はおろか、バイクや自転車だって使うのに難儀するというもの。
 陽が落ちかかったころ、少年がヤギの一家(?)を従えて渡っていった。親のヤギの手綱を引いているが、あとに続く子ヤギは行儀よく親に従う。少年の母親であろうか、最後尾から見守る。一行が畦を行くスピードはかなり早く、あれよあれよという間に視界から消えていった。一幅の田園絵巻を見ているようだった。


「危なげない足取りで家路へ」

■毒虫と免疫

西ジャワ州クンデン山地で遭遇した巨大ムカデだ。身の丈は50センチ以上あったと思う。黒光りした胴体と黄色い無数の足のコントラストが美しいと言えなくもなさそうだ。図体が大きいだけに動きは緩慢だが、こういうのに咬まれたら、ただごとでは済むまい。
 だが、私の場合は多分大丈夫だと思うのである。

昭和21年(1946)、私たち一家は中国・瀋陽(当時は奉天といった)から引き揚げ、父の故郷である北陸のとある田舎に引き揚げてきた。父が村を出てからすでに15年以上たっていたし、家もないので親戚の使っていない土蔵を手入れして当座住まっていた。
 鼠はもちろん、それを餌にする青大将も天井からぶら下がってくるという環境で、子供のころは蛇は大切な遊び友達だった。あるとき、昼寝から目覚めたら体がまったく動かない。頭が朦朧とし体中が痛み熱もある。
 当時、子供の発熱なんぞはよくあることで、無医村でもありそのまま放置されていた。食欲もまったくないし、40度の高熱も引かないまま2日が過ぎた。さすがにこれはおかしいと、町場から医者の往診となり、背中にムカデの咬み跡がみつかった。もう治りかけていて特別治療もしなかった記憶がある。だから私はムカデの毒にはすでに免疫がある、と信じているのである。


「ゆっくり進む巨大ムカデ。見ようによっては美しい」

■わっ、サソリだあ

正直いってびくびくものだった。山地の茂みを歩いていたときのこと、雨上がりの草むらに真っ黒い昆虫らしき、かなり大きな(全長15センチはあった)生き物が蠢いていた。近寄るとまさしくサソリがそこにいた。尾の先っぽについている赤い玉が鈍く妖しく光っているような・・・。それをゆらゆら振りながらもそもそと進むのだ。
 活きているやつを見るのは初めてだったので、こわごわ真上に身を乗り出して急いでシャッターを押した。どうもへっぴり腰だったようで(見ていた甥がそう言った)、あんまりシャープに撮れていないようだ。サソリは飛びかかってくるかどうか知らないが、そんな気がして怖かったのだ。
 ところで山岳民族を訪ねるときは、たいてい3日か4日ほど一緒に暮らすのだが、トイレは川を使うことは先に述べた。しかし、私は田舎で中学生の頃から日曜日には一日山で働くことが多かったので、山で始末する習慣があった。だから水の中というのは経験がなくやりづらかったので、山にしていた。それを村人が見つけて必死になって止めようとするのである。
 よくよく聞いてみると、ムカデやサソリ、毒蛇などで年に数人は命を落とすのだそうで、客人を死なすわけにはいかないからだという。ムカデは大丈夫だと思うが、さすがにサソリとの遭遇以来、川に宗旨替えすることにした。


「生きているサソリ初見」

第八回
島嶼部アジア -インドネシア-
里山で遭遇した愛すべき生きもの

第七回
モンゴルの夏

第六回
ガンジス河を下る(2)

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