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01 遥かなり、ユーラシア

 津軽海峡を西に抜けて、日本国の"引力圏"を脱しつつ航行していた時、霧のなかにかすかに見えた日本の陸地はいまにも水没しそうだった。入港しつつあるナホトカ港をはるか沖あいから眺めた時も、赤みがかった岩肌のほかには何も見えず、軽い失望を感じたものである。

ハバロフスク駅で「ロシア号」という見たこともない大柄な列車に乗り、ユーラシア大陸を走り出すと、経験したことのない精神の高揚を感じた。カメラとフィルムはもとより、フィルム現像薬品と現像タンク、太陽光でも写真プリントを焼くことが出来る特製の引伸機まで担ぎこみ、いつ日本に帰るか確たる予定もない旅の出発である。

  翌朝、身体に暑さを感じて目を覚ますと、コンパートメントの外にはみずみずしい林や輝く草原が流れ過ぎていた。モミノキやカラマツ、白樺の幹が輝き、生い茂る草の葉が光に透かされ、太陽からの新鮮な光線は全てのものに到達しているということを理解させた。植物の形、色、影と濃淡、そして果てしなく続く亜寒帯林の広がりは単に眼と脳髄に入るだけでなく、身体の隠れた小さな器官にまで染みてくるような、地球という惑星の朝だった。若い女性車掌ふたりが、電気掃除機のコードを引っ張りながら各室を掃除して回り、それが済むと金属の把手つき透明グラスに入った熱い紅茶を運んで来た。固すぎて溶けにくく、かき混ぜなければ必ずグラスの底に残る、褐色がかった角砂糖が添えられていた。女性車掌のひとりはタマリェという名前で英語は通じなかったものの、素朴で気取らず、誰に対しても笑顔を絶やさなかった。

 それにしてもあの熱いチャイ(紅茶)は私の喉と心をいくたび癒してくれたことだろう。はじめ渋く、グラスの下になるにつれ甘味がましていく琥珀色のチャイと沈んで残った砂糖を、朝の清涼な空気が、分秒の速さで熱をおびていくのを肌で感じながら味わったのだ。

 客車のコンパートメントと通路は、棟割長屋と路地のような関係である。退屈しのぎに通路に立ち、窓を開けて風を受け、列車の背後から朝あがった太陽が、列車と併走するかのようにして追越し、やがて、押し潰された灼熱のインゴットのように、ユーラシアの大地に沈むさまを眺めるには格好の場所なのだ。しかし、ロシアの中年女性、とりわけ太めの人を通路でやり過ごす時はしばしばおかしなことがおきた。通路の幅を埋めつくすように、ノッシ、ノッシと歩いて来たその女性を通すため、スルメのような恰好で窓際にへばりつかねばならない。

 バストから臀部までの幅が6,70cmもあるかと思われる女性が、体を蟹のように横に向けてすまなさそうな顔をしたり、可愛いらしい照れ笑いを浮かべたりしながら、私の背中を、豊かな胸でグイッと押しつけ、そのままゴシゴシ横にずらして通り過ぎるのである。立場上、私は至近距離で彼女たちの顔を横目で眺めることが出来たのだが、人によって感じさせる不思議な口もとの陰りは、産毛というよりも、かなりの濃さに達した無精ヒゲに近いようなものであるということを発見したのである。

 とある駅に停車した時、珍しいことに、豊富な水が出る井戸ボンプが線路のすぐ脇にあった。乗客はわれ先に喉をうるおし、乗務員の若い男たちもやって来て、汗と埃で汚れたシャツを脱いで頭から水をかぶり、逞しい肉体と爽やかな表情を蘇らせた。するとそのひとりが、近くにいたタマリェに後ろから抱きついてかかえあげ、そのまま水場に突進した。示し合わせて待ちかまえていた別の乗務員がポンプの筒先から、悲鳴をあげるタマリェの豊満な胸の谷間めがけてどっと水を流し込んだ。

 ところがどうだろう、どうなることかとはらはら見ているのに、タマリェは怒るどころかケタケタと笑いだしたのである。それが開始の合図になって、列車の内外は乗客も乗務員もなく、男対女の水かけごっこで大騒ぎになった。女たちもバケツやコップに汲んだ水をまともに男たちに浴びせてはキャーキャー逃げ回り、さらに男たちを追いかけては水をぶちまけるという、豪快なロシア式消夏法を楽しんだのだった。
(旧ソ蓮/1970年7月)

<斎藤忠徳>
人間が生き、生活しているすぐそばに立ち、ストレ−トなスナップ(演技、打合せ、やらせなし)を撮ることを目標として、東欧を主にこれまで世界約60ケ国を歩いて撮影してきた写真家。
発表の場は、主に日本と欧米のグラフ誌のほか、東西ヨーロッパを中心に世界のおよそ30都市以上で開催してきた個展会場。

02
囚人番号227、アウシュ
ヴィッツを2度生きのびた男

01
遥かなり、ユーラシア

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