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02 囚人番号227、
アウシュヴィッツを2度生きのびた男

 1970年の夏、アウシュヴィッツ強制収容所跡の、かつて被収容者をたらふくのみ込んでいたブロック(被収者が居住した、煉瓦づくりの建屋)番号22の一室に、私はひとりで寝起きしていたことがある。
 アウシュヴィッツ収容j所跡では、<その土からはまだ人間の骨が出てくる>と書かれた坂東宏氏の著書を読み、それがどんなことなのかを想像することが出来ず、自分の目で見るより他に仕方がないと思って出かけた1970年の夏だった。

 毎日、朝から夕方までブロックの内外や収容所跡の近辺を撮影して歩き、「アルバイト マハトゥ フライ(労働は自由への道)」の飾り文字がついた中央ゲ−トから見学者たちが出て行く夕方、私は逆にその門からひとり中へ帰って行った。日本から担いで行った現像タンクや引き伸ばし機を床に並べ、消毒液の匂いがたちこめる夏の夜、常に白濁している質の良くない水、がらんとした大きな部屋に暗く小さな電球、その影と闇の静寂のうちに撮影済のフィルムを現像した。
 その時、敷地内の土中から腐りかけた洗面器などを掘り起こし、あるいは記録保管所で写真や文書を調べるなどしていた、私と同世代の若いドイツ人男女20人ほどの世話をしていたひとりの男が、食堂にいた私のテ−ブルに近づき、袖をまくり上げて入れ墨の番号を見せ「食事はいつも我々と一緒にとれ」とぶっきらぼうに言った。それがイエジィ・フロノフスキとの出会いであり、彼との長いつきあいの始まりだった。

 イエジィは1922年4月22日、旧ポ−ランド領ルボォフ(現ウクライナ共和国)近郊で生まれた。第2次世界大戦が始まった1939年9月、愛国的な17才の彼は家出してポ−ランド軍に参加するが、ドイツ軍とほとんど同時に東から侵入して来たソ連軍に二度逮捕され、いずれも逃走する。

 1939年8月23日にリッベントロップ(当時のドイツ外相)とモロトフ(当時のソ連人民委員会議長)によって結ばれていた独ソ不可侵条約の秘密協定でポ−ランドが二分されていた1940年4月、イエジィはソ連占領下のポ−ランドからドイツ占領下のノベソンチにある自宅に戻った翌朝、突然何の説明もないままゲシュタポに逮捕され、6月14日、アウシュヴィッツへ最初に収容された728人の1人として、タルノフの刑務所から移送された。
 囚人番号は227番だった。その後カポ(監督役の囚人)に木の棒で25回殴られ死ぬ思いをするが、イエジィの父親が将校という理由で幸運にもアウシュヴィッツから釈放された。しかし1年半後、ポ−ランドの地下組織に武器を運んで再び逮捕されたものの、ワルシャワのゲシュタポ本部での尋問を約3ケ月間、のろまな阿呆を演じて殺されずに切り抜けた、そして、アウシュヴィッツ2(ビルケナウ収容所)に送られたのである。

 そこで彼は恋人たちエデクとマラの有名な脱走を援助した。最後にドイツ国内での奴隷労働と、1945年4月ザクセンハウゼン強制収容所からのいわゆる<死の行進>に駆り出された 。食べ物も水も供給されず野宿を強制され、弱った者から後頭部を撃たれて死んでいくいくうちの12日目に逃走し、幸運に助けられて逃亡に成功する。
 ベルリンの北方でアメリカ軍の前線基地にたどりついて解放されるまで約6年間、彼はナチスに抵抗して戦い、始終死の淵に突き落とされながら、そのたびに劇的に生きかえった。いつも危険と背中あわせにいて、常に奇跡的にツイていた。それは「状況がいくら厳しくても、ぼくがそこにいるの人たちとぼく自身をも微笑ませることができた時、状況はもはや深刻でなくなっている」という、多分彼の性格、ことにユ−モアの感覚と無縁ではない。

 イエジィはアウシュヴィッツで、収容所長のルドルフ・ヘスや、双子の人体実験(それは似非の医学実験だったとイエジィは言う)をおこなったとされるドクタ−メンゲレと言葉を交わした経験があり、ゲシュタポ長官ハインリッヒ・ヒムラ−を数メ−トルの距離から目たこともあった。
 重要なのは、それまで病害虫の駆除に使われていたチクロンBという薬物が、人間の虐殺に使われ始めた瞬間を次のようにイエジィが目撃したことである。

 「収容所所長(ラ−ゲルコマンダント)のルドルフ・ヘスが出張中に、連絡隊長(ラポルトフュ−ラ−)のゲルハルト・パリッチは上司の収容所隊長(ラ−ゲルフュ−ラ−)フリッチとチクロンBを人間の殺戮に使う相談をして実行した。
1941年11月頃、みぞれが降る寒い日、アウシュヴィッツに初めて人民委員、政治将校、共産党員の他にユダヤ人将校や一般兵士も混じった約5,600人のソ連軍戦争捕虜が送られて来た。
 その日は、仕事の後に<全員ブロックに戻って寝棚で横になっているように。窓にも近づくな>という命令が我々に出された異様な雰囲気の晩だった。我々の耳にはドイツ人が命令する声や誰かが棒で殴られる音が聞こえてきた。窓のそばに寄ると、服を着ているのか裸なのか定かでない何百人もの人々がブロック11まで走らされるのが見えた。その地下には、入ったら生きて帰れない懲罰の牢屋が並んでいる。走っていた大勢の人間はソ連の戦争捕虜たちで、彼らはそのブロック11の地下に入れられたのだ。
 すでにそこには、病気のポ−ランド人の集団がその直前に閉じ込められていた。そこへ物々しく不気味なガスマスクを持ったパリッチが現れブロック11に消えた。そして、しばらくしてから外に出て来てドアを閉めその隙間をふさいだ。なぜぼくが見ることが出来たのかというと、ぼくがいた場所はブロック11に近いブロック17aの、寝棚が三段あるうち一番上の寝棚にいたからだ。
 初め静かだったブロック11から急に異様な音が洩れてきた。「ウゥゥゥゥ、ウゥゥゥゥ」それは動物が吠えるような人間の呻き声でときには強く時には低くなって朝まで続いた。ガスのために人々が一晩中苦しみ悶えていたのだ。パリッチは翌朝再びガスマスク姿で現れて数分間ブロック11の中に入ってから、1リツタ−缶に入った新しいチクロンBをいくつも運び入れた。長く苦しんでいた人たちが息絶えるのに数分もかからなかった」

 イエジィは2度目のアウシュヴィッツ(ビルケナウ収容所)で初めて囚人番号を入れ墨された。しかし、それは227でなく新しい138793番だった。これを友人に注意され、アウシュヴィッツは2度目であることをSSに申し出て、新しい番号はキャンセルされ改めて元の番号227を入れ墨してもらう。その結果ふたつの番号が左腕に残されることになった。

 腕に番号が入れ墨される以前は死体を前にして、2人の囚人が死んだ囚人の名前と番号などをブロックエルテステ(各ブロックの囚人の長)に証言することになっていた。ブロックエルテステはそれを名簿と照合して、死体の胸に色鉛筆で番号を書いた。ところが死後の腕に書かれた色鉛筆の番号は死体の水分で短時間で消えてしまう。担がれて焼却所に運ばれ、死体の山に積み上げられればなおさら擦れて、どれが誰だったかはすぐにわからなくなった。
 そして実際におきたことでもあるが、番号が盗まれ、一般囚人の死体がドイツ人にとっての重大な敵、危険な政治犯、重要人物のものとして処理され、当の本人は別人の番号と名前で生き延びる可能性が多分にあった。ゲシュタポもこれに気づき、番号が盗まれるのを防止しようとしていた。そこへアウシュヴィッツの囚人であった2人のユダヤ人が、採用されれば楽で有利な仕事につけて多めの食べ物にもありつけるかと、新しい死体識別方法である、腕に番号を入れ墨をするアイデアを売り込んで採用されたのである。
 ユダヤ人は星のマ−クと番号が、ジプシ−はZの次に番号、ポ−ランド人とウクライナ人は単に番号だけが入れ墨された。ドイツ人とフランス人、チエコ人は入れ墨をされなかった。

 「1940年8月、最初の脱走者が出た時、被収容者全員が約20時間、ほぼ1000回の体操をさせられて、多数の人が死んだり動けなくなった。もう正確に覚えてないが、その時、5人から10人ぐらいの人が刃物のように鋭いオクセンツェンマ−(牛のペニスで作られた鞭)で1人110回鞭打たれた。しかもSSはドイツ語をよく知らない人間に1、2、3、とドイツ語で数えることを要求し、間違えば初めからやり直して鞭打ち、気絶すれば水をかけてさました。
 残りの囚人全員はそれを見物していなければならなかった。我々はいつも不可能なことを強いられた。聞いても信じられないだろう? それがアウシュヴィッツなんだ。またSSは有刺鉄条網の外へ囚人の帽子を投げて拾うように命令し、外に出た囚人を撃ち殺してから、脱走しようとしたと嘘の報告し、自分は褒美の休暇をもらった。彼らが楽しみとして人を殺したことなど数えきれないほどある。
 戦後元SSたちは裁判で命令に従ってやっただけで、自分勝手に人を殺したことは1度もないと悉く嘘をついた。たしかに彼らはヒトラ−の命令はすべて実行しなければならないと考えていた。しかし、いかなる人のどんな命令であっても他人に対する行動は、人間はひとりひとり自分の頭で道徳的に考えなければならない」

 元SSでも例外的な人間はいた。1970年代、アウシュヴィッツでドイツの若者たちを案内していたある日、イエジィは犬が吠えるようなSS独特の怒鳴り声を耳にした。
 「テメエコノヤロウ、静かにしないか。俺はここで事実を見た元SSマンだ。この人の言ってることはみな本当のことだ!」
 それは<死の壁>の前で笑ったり騒いだりして、イエジィの説明を邪魔するドイツの若者たちに向けて発した、そのグル−プのバス運転手の声だった。イエジィはその運転手と友だちになった。写真がきれいに貼られたその元SSからの手紙をイエジィが私に見せ、この話をしてくれたのだ。

写真説明:最初にアウシュヴィッツへ送られた頃のイエジィの囚人写真。1940年頃(上)
アウシュヴィッツ(ビルケナウ収容所)跡でのイエジィ。1993年11月( 下)

<斎藤忠徳>
人間が生き、生活しているすぐそばに立ち、ストレ−トなスナップ(演技、打合せ、やらせなし)を撮ることを目標として、東欧を主にこれまで世界約60ケ国を歩いて撮影してきた写真家。
発表の場は、主に日本と欧米のグラフ誌のほか、東西ヨーロッパを中心に世界のおよそ30都市以上で開催してきた個展会場。

02
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