茶柱横町 茶柱横町入口へ
 
 
プロフィールを見る
次を見る

001 深い、深いデリーの夜


警官がぶっきらぼうに指を向けた先に、一台のバスがある。
曰く、市街行きのバスだという。
ほんとうか?と訝りつつも歩を進める。
とりあえず、バスに向かう。
運転手に聞いてみると、市街まで連れて行ってくれるらしい。
タクシーは危ないし(強盗やぼったくり)リクシャーで行くには高すぎる。
かといってミニバスでは同乗者を募らなければ、やはり高い。
高いと言っても日本円にして、せいぜい200〜300円なのだが、ここでは大金だ。
バスは、何度か失敗しているので不安はぬぐい切れないが、これに決める。

しばらくして、市街行きのバスが発車した。
向かって左手に景色を眺める。
ゆるく吹く風と茶けた夕暮れ。
荒れて乾いた平原。
揺れる、揺れる。

時折、鼻先をかすめる埃の匂い、菊の匂い、香水の匂い。
風がぬるい。
空気が、重い。
その空気は、僕が今まで吸ってきたどの空気よりも少し、軽い。
くすぐったい懐かしさが、足先から這うようにこみ上げてくる。
感慨深く、半ば呆けていながらも、ぐつぐつと湧きあがってくるのは高揚感。
顔の筋肉は弛緩しきって、なかなか戻りそうにない。
(あれから、一年、かあ。)
そうして、この時になってようやっと、日本から遠く離れたことを実感する。
それは故郷、日常、退屈…言い方は何でもいいが、
しがらみと名のつくあらゆるものからの自由。

何をしよう。
誰と会うだろう。
何が起きるだろう。
何を見つけるだろう。
何が変わるだろう。

不思議と、郷愁に似た気持ちが胸をいっぱいにする。
この国の景色は、心に根付いて離れなかった風景達。
日本にいて、いつも心のどこかにひっそりと浮かんでいて、
ふとした時にぼくを呼び寄せて、そこへ開放する。
そうした時、ぼくは幾分か救われたような気持ちになる。
日本と全く異なったこの国の風土の、何がそんなふうに感じさせるのだろう。
なんにもないただの空っぽの平原と、あけっぴろげられた空と、乾いた空気と、
雑多な町並みと、ただただ汚いだけの道々と。

どうして。
でも、もう一度。
そんな気持ちから、またこの国に足を運ぼうと思ったのかもしれない。
何かを感じたい、と。

この、清濁総てを併せ呑む、土壌広く、深い文化を持つ国へ。

右手には、冒険に出る少年のようなワクワクした気持ちがたっぷりあって、
先の見えない不安の気持ちが左手に少し。
そんな不安定な感情で、悦に入っている時間は矢のように過ぎて…
1時間という行程の長さなんか微塵も感じないまま、市街に着いてしまう。



「Pahal Gandhi〜」

彼らはいつも、めったやたらと早口だ。おまけにRの発音を全て
「る」と言うもんだから、
気を付けていないとたまに何を話しているのか聞き取れなくなる。

さて、宿を探さないといけない。
予約も何もしていないので、去年停まった所にお世話になろうと考えている。

歩いていると、リクシャーの親父どもがわらわらと寄ってくる。
良いカモ以外の何物でも無い、ぼくら。
特にお人好しの日本人なんかは格好の的なのだと思う。
なれなれしく話しかけてくるおやじたち。


「どこいくの?」 「なんていう宿?予約はしてあるのか?」
「そうか。Ok。リクシャーのってけよ。」
「5ルピーでいいよ。」

珍しく会話がすらすらと進む。
疑いを抱く暇も与えないようなスムーズさ。

「安いね。いや、本当に安いね! 
5ルピーで、乗るよ、メインバザール・パハールガンジまでね。
絶対違うところに連れて行くなよ。」
ぼくがそう言うと、運転手のおやじは首を、左に少しだけかしげ、
右手をくるりと回しながら頭の横まで上げて了解、の意を示す。
かれらがよくやるハンドサインだ。

「そうだ」「そうなんじゃない?」の意だったり
「任せるよ」「好きにしな」といった意味だと解している。
なんだかその動作には愛嬌が多分に溢れていて、ぼくも気付くとやっている。
知らぬ間にやっている。

とぼけた顔をしながらすこし笑い、こう、右手を、くるり。

リクシャーがぶいんぶいん音をあげながら、
バスやトラックの間をすり抜けていく。
文字通り彼らは障害の間をすり抜け、追いこし、前へ前へ進んで行く。
あまりに無謀で危険極まりないが、
それでも事故にならないのは不思議で仕方がなくて、
かれらの運転技術には感心してしまう。

そうして目的のメインバザール、パハールガンジへ。
ここは商店街のようなところで、
朝は日が昇る頃から夜は日が暮れた後も人がわんさかいる。
人が多く、外国人も滞在するため、スリなんかが横行している。
そしてぼくもその被害に合った一人である。

犯人は二人組みの少年。上下に黒ずんだ衣服を身に付けた少年たち。
結論から言えば、ぼくは何も取られなかった。
少年達は、ぼくにぶつかってきたのだ。ぼくを間に挟むようにしてすれ違いざま。
なにすんだ、と振り向くと少年たちはちょっと驚いた顔で笑っている。
まるで「あっ、家に忘れもんしてきちゃった!」
といった感じの表情。
そんな感覚なのか。
なんてこった。
ぼくは、よほどのまぬけヅラで歩いていたんだろう。
しかしその表情を見てさらに気が抜けてしまった。

そんなパハールガンジの、懐かしい想い出。

これを思いでといえるぼくは、はたしてまともだろうか。

などと考えていると、今はとうに夜の9時。
パハールガンジも人気はなく、静まり返っている時間。

のはずだが…
なんだか通りの方が騒がしい。
進もうとすると妙な風体の男が近づいてきた。
めんどうくさいことに巻きこまれる予感。
これが、身体中でびりびり警報を鳴らしている。
彼はぼくらの前に立ちはだかると、厳しい表情で、
「今日はホーリー祭が終わったばかりで通りは荒れまくってる。
ごみやがれきの山もあって、とてもじゃないが入れるような状況じゃないよ。
違うところへ行け」

それ、本当なのか?

今は夜の9時だぞ。 出歩くのも危険だって言うのに、そんな、どうしろと。

その後10分くらい話を聞いてみる。
両手を激しく動かして訴えるように状況を説明する彼の話に耳を傾ける。
どうやら本当…らしく思える。
疑わしい点は、何個もあったのだが…

くそう。

なんだか悔しい。
それが事実だとしてもやっぱり悔しさがこみ上げる。
だって、早く宿に入りたい、と思う。
この状況では。
どうにかパハールガンジに入り込んでやりたい。
とりあえずリクシャーの親父に頼んで違うところから入れるか
探してもらうことにする。
おやじはリクシャーをブイブイ言わせながら入り口を探し始める。
なんとか、入り口を見つけた。
が、入れず。
バリケードが貼られている。

見つけた三箇所の入り口全てにバリケードが張られていた。

「こんな時間じゃ危ない。俺の友人のところに行こう」

出た。
そろそろ言うんじゃないかと思っていた、お決まりの言葉。

こういった類の言葉を聞くと、
初めから仕組まれていたんじゃないかとすら思える。
実際、こういったフレーズの後に連れて行かれる場所は、
9割9分リクシャーの運転手がマージン目当てで紹介する高額な宿だからだ。

宿の当てが無いというこの状況。
バリケードという打ち崩せない現実。
誤算の連続。

こちらでは宿に予約なんて、普通はしない。
だが、そんなふうに決めてかかっていたのが間違いだった。

そしてまさか、今日が年に一度のホーリー祭だなんて考えてもなかった。

でも、いまさらの話。
頭を切り替えて…
さ、どうする。
誘い文句に曖昧な返事しかできないままでいる。
もうリクシャーは走り出していて、
どんどんどんどんパハールガンジから離れて行く。
同時に焦りの気持ちが生まれ始めていた。

時おり見かける茂みを見て考える。

ここで一泊してやろうか。
そんな考えが頭に浮かぶ。
そう言ったらこの親父はどれだけ驚くだろう。
その場面を想像して、おかしくて噴き出しそうになる。

が、これだけ逼迫した状況だと、こんなふうにとんでもないことを考えてしまう。
そうして実際、それが段々と現実的なプランに思えてきてしまうのが、
突発的な事件の渦中に身を置くことの問題なのだ。

木の影なら犬も寄ってこないかもしれないんじゃないか。
薬をやってるやつらにも、これだけ暗ければ見つからないだろう。
だとしたらなんと言ってこのリクシャーから降りようか。
他の日本人はぼったくり宿に宿泊するだろうな。
どうしよう。

あっ

ここなら大丈夫そうだ。
しかしな…

あっ

ここならいけるかもしれない…
でも犬は嗅覚が敏感だよなあ…
はたして狂犬病の犬の鼻はしっかり利くのだろうか。
いざとなったら水ぶっかけりゃ逃げるかな。
恐水病とも呼ばれているんだから…
あああ、しかし、しかし…

結構な速度で走るリクシャーの運転手は、
そんなふうに脱走のアイディアを検討している僕の頭の中で繰り広げられる
壮絶なまでの葛藤のことなどを知っているはずも無く。
愚か、と言う以外の何物でもないぼくの、
その滑稽なまでに弱々しく小さな意思は完全に置いてけぼりをくらい…
そうこうしている内に目的の場所に着いてしまった。
曰く、彼の“友人”の家に。
不完全燃焼の、ぼくの意志。

友人…

これが彼の友人の家である。
立派な事務所にしか見えない、この建物である。
暗く静かな町の郊外で、ここだけが煌々と光を放っている。
そして時は既に10時。

…どうすることもできないので、諦めて事務所に入ることにする。

「Hey Japany! 」

軽快なテンションで話しかけるのはやめてくれ。
参っている心にズシズシ響くんだ。

ゆっくり、ゆっくりと疲れた身体を事務所の椅子へ預ける。
そうして陰鬱たる表情で交渉を始める。

「What’s happen?」

そう問いかけてくる彼にぼくは事情を話す。
すると、さっきパハールガンジで門番のようだった男の説明と
全く同じ説明を受ける。

どこかで打ち合わせでもして口裏合わせているんじゃないか?

と思えるくらい言葉のフレーズが同じで、それが余計にぼくをいらいらさせる。
頼んで電話を借り、パハールガンジの宿や、周辺の安宿に電話したのだが、
如何せんこんな時間。
しかもホーリー祭の直後という事で結局、宿はいっぱいだ、ということだった。
(ホーリー祭のこの時期、ここデリーには延べ300万人もの人達が
周辺地域から集まる。その為に安宿は当然の如く満員御礼。
ぼく達の入り込む隙なんぞ微塵もない状況だった。)

初日にして、絶望。

つい数時間前まで自由を感じて輝いていた心は、
とうにその色をどす黒い絶望の色に変えていた。
ずぶずぶと重苦しいものが胸に溜まっていく。

紹介された宿に泊まるしかないのだろうか…
大して金は持ってきて無いし、カードも無い。

結局、そのあと2時間くらい粘るのだが安宿は見つからない。

やっとのことで見つけた宿ですら5000円するという。

た、高い。

実は、その2時間の間には一度、リクシャーのおやじにもう一度、
外をまわってもらっていた。
ダダをこね続けるぼくに対して、事務所の兄さんが机をバンバン叩いて
「出ていけよ!!」
怒りだしたからだ。
沈黙。

睨み合い。



……

痺れを切らしたぼくはそこで、
「じゃあいいです。」
と言って事務所を出る。

すると、追いかけてくる。
だろうと思った。

しかし制止の声に振り向くことはせず、
リクシャーの親父にいますぐ出るよう言う。
何が何でも出るように、言う。



事務所の空気に飲まれていたせいもあって頭が回らなくなっていたから、
出て正解だったのだ。
それと、未だに外泊のプランを捨て切れていなかった。

今思うとかなり危険な、愚か極まりない考えだったことに気付かされるが、
その時はそんなことは微塵も思っていなかった。

結局、その事務所の紹介してくれた宿に泊まることにする。
リクシャーのおやじに宿まで連れて行ってもらう。

宿に着き、値切りの交渉をし、少しだけ負けてもらい、代金を払い、
カギを受け取り、部屋に入ろうとすると親父が部屋までついてきた。

再び嫌な予感がして、見事に的中。
そしてこう言う。

「宿を紹介したし、こんな時間まで連れ添ったんだ。俺にも家族がいる。
さっき電話まであった。早く帰って来いってさ。子供が泣き止まないんだ。
大変なんだよ。200ルピー払ってくれよ。」

正直、その言葉を聞く前から、ぼくははらわたが煮えくり返っていた。
一銭たりとも払うつもりなんかなかった。
だから当然、その言葉を無視して扉を閉めようとするが、
表から取っ手を掴んで閉めさせてくれない。
さらにイライラが募る。
思わず、
「あんた、ふざけるのもいいかげんにしろよ!
リクシャーの代金は払ったし高額な宿に泊まる羽目になってこっちは
予定よりも金が無いんだ。払う金なんかない!」

本当に頭に来ていて、強気に言ったのだが、彼らはそういった状況に慣れている。
普段の生活から怒鳴りあうことなんてリクシャーの運転手という職業柄、
日常茶飯事だし、日本人が金を持っていることも、重々知っている。

しばらく、ぼくは彼の目を睨みつけた。
それでも彼の目は普通の表情をしている。
納得いかない。

「お前が、俺をここに連れてきたのはビジネスなんだろう。知っている。
何度もそういうケースを見てきた。お前らはやり口がみんな一緒だ。」

それはつまりその罠に引っかかった自分を認めているということで、
自らを貶める言葉に他ならなかった。
言っていて情けなくなったが、言わずにはいられなかった。
どうしようもない状況で、圧倒的に不利で、その状況に抗えなくて、
でも悔しくて、何かを言わずにはいられなかった。
どうしても気持ちが静まらなかった。
「頼むから帰ってくれ。頼むから。」

それでも彼は引かなかった。
しかも尚、ぼくの目を捉えて離そうとしない。

これ以上、こいつの顔を見ているのが厭になったぼくは、
財布から200Rsを取り出し、相手の胸ポケットに突っ込み、
無理やり押し出し、扉を強引に閉めた。

胸のむかむかはなくならず、怒りと空しさだけが残った。
もう何もする気もなくなって、ベッドに突っ伏すようにして倒れこむ。

初日から最悪だな。

くそっ

思わず暴言を吐く。

その時、扉を叩く音が部屋に響いた。

コンコン

なんなんだ!
これ以上なにかしろって言うんなら…
ただじゃ引き下がらない。

コンコン

倒していた重い体を…
ゆっくりと両腕で起こし、扉へ向かう。
一つ、深呼吸をし、扉の向こうで懇願するような表情をしているであろう
おやじを想像する。
転んでも、ただじゃ起きないからな…

意志を固め、扉を開ける。

そこに立っていたのはさっきと同じ顔の男。
なにかあったの?と言いたげな顔。
少しだけ真面目な表情。
で、しかも差し出しているその手には100Rsがある。
ぼくに返そうというのだろうか。
何がなんだか分からず、思わず受け取ってしまう。

そうしてぼくに、
「Are you happy?」

こう言うのだ。

唖然とした。

ぼくは馬鹿みたいに口をあんぐりと開けて、立ち尽くした。

なにかよく分からない、様々な感情がない交ぜになった重たい何かのかたまりが、急に胃の腑からこみ上げてきた。

こんな状況になってまでそのセリフを言える、インド人。
今まで怒っていた自分自身の下らなさのような、
ばかばかしさが妙におかしく、下らなく思えた。

ホーリー祭だって聞いて、あんなに困った。
本気で路上で寝ようか迷った。
1時間もリクシャーで考え続けていた。
2時間も事務所で交渉した。
5000円も宿代を払った。

なのに、最後の最後が
「Are you happy?」
とは、なんなのだろうこの“インド人”という人種は。

本当におかしく思えて、ぼくは。
何もかもどうでもよくなってしまって。
馬鹿笑いをしてしまう。

静かなホテル、閑静な夜の住宅街に響く高らかな笑い声、深夜1時。

そして彼の背中をばん、と叩いて一言。

「Bye!!!」

扉を閉めた。

はっはっはっは!!!

本当に、おかしい。
このタイミングであのセリフが言えるだろうか、普通。

全て、おかしく思えて笑いが止まらない。
すべてがあまりにも下らない。
ああ、笑いが治まらない。

ぼくはそれらをササッと日記に記して。

ちょっとだけ涙を浮かべながら、たばこに火をつけて。

今日あったことを思いだして…

明日はいい事があるといいなあ、と思いながら。

そうして少しだけ、空しさと寂しさを感じながら、
ぼくは異国での最初の、長い一日を終えることにした。

005
『アグラ、幻、シルエット』
-その2-

004
『アグラ、幻、シルエット』
-その1-

003
うそぶく人、疑う僕

バックナンバーINDEX
次を見る
| 著作権について | このページのトップへ | back issueの入り口へ | 茶柱横町メイン入口へ |