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第六話 真夜中の訪問者


「そこにいるのはだあれ」

アラスカでの暮らしについて。

ある夜、私が部屋で勉強をしていたときのこと。
電話帳ほどの厚さの教科書と辞書を相手に格闘していたら
いつの間にか夜はふけ 午前2時くらいになっていた。
私が住んでいた家は大通りから離れていて、深夜は誰も通らない。
カリカリカリという自分の鉛筆が走る音以外何も聞こえなくて、
まるでこの部屋以外存在していないかのような静けさの中で
私は宿題に集中していました。
そのとき。

コツン、コツン。

突然の音。小さな音だったけれど、無音の世界の中では爆発音にも等しく、
私は飛び上がるくらい驚いた。

コツン、コツン。

まただ。
誰かが窓をノックしている!
窓にはカーテンがかかっている。私の部屋の窓は庭に面しているので、
ノックするという事は誰かが既に勝手に敷地内に入っているということ。
宿題どころではなく、
平和だったはずの夜は一瞬のうちにサスペンスの様相を呈しています。

ゴツン、ゴツン!

音は変わらずなり続け、それどこかなんだかどんどん大きくなっていくみたいだ。覚悟を決め、私はこの真夜中の訪問者の正体を確かめるべく
窓に近づいていきました。
自分の心臓の音に耳をふさぎたくなりながら、
おそるおそるカーテンの間からそっと外をのぞいてみると・・。

そこにいたのは、一頭の巨大なムース。

ムースはうちの庭の草を食べに夜の散歩をしていたようで、コツンコツンは、
そのムースの立派なツノが窓に当たっていた音でした。
泥棒や幽霊じゃなかった事への安心から、ヘナヘナと体の力が抜けてゆきました。同時にあんなに近くで野生のムースと対面したのは初めてで、
震えるような感動に包まれたのを覚えています。
月明かりに照らされて悠然と草を食むその姿は、
まさに神話の瞬間に立ち会ったよう。
ムースはその黒い大きな瞳で一瞬だけ私を見て、
すぐにまた夜食に集中し始めました。
私はその姿をじっと見つめていた。それは真夜中のとても静かで奇妙な時間。
音のない、対話の時間。

「どうですか、うちの庭の草はおいしいですか」
「ふむ。悪くないですが、まだちょっと固いですね」

そうか、アラスカで暮らすという事は
夜中に突然ムースがやってくるということなのだ、と私は妙に納得してしまった。
ここには、確かにこれまで私が暮らしてきた世界とは違う時間があり、
宇宙がある。
その宇宙の中では人間だけが特別だなんてことはなくて、
全ては等しく自然の中に少しだけ自分の居場所をもらって生きている。
ムースが私の世界に入ってきたのではなくて
私がムースの世界に入れてもらっているのだ。
私にとってムースが一頭の動物であると同時に
ムースにとっても、私はたまたまそこにいる一頭の動物にしか過ぎないのだ。
私たちは、完全に対等な存在。
そのことが死ぬほど嬉しかった。踊りだしたいくらいだった。
ムースがいて、カリブ−がいて、グリズリーがいて、私がいる。
ザトウクジラがいて、ハクトウワシがいて、ワスレナグサがいて、あなたがいる。

真夜中の大発見だ。

どれくらいその時間が続いたかは覚えていないけれど、
気がついた時にはもうムースは暗闇の中に消えていた。
その後は寝られなくて 一晩中ニヤニヤして過ごして
次の日、その大事件をお母さんに興奮しながら報告したら
「ああ、よく来るのよね」とまるで何でもない事のように言っていた。

宇宙が真夜中に窓をノックしてやってくる暮らし。

悪くない。

2009年
ゆっくりと

AIR MAIL
from LONDON

第九話
空とび猫 デナリの物語<1>

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