タイコ(音楽・器楽トラウマ第2弾)
「えっ!?タイコがトラウマ?今、それを仕事にしているのに、ほんまかいな」って、皆さんビックリされるかもしれないが、ほんとうなのである。まあ、トラウマと呼べるかどうかわからないのだが、とにかく色々と大変だったのである。「人生、一筋縄じゃあ行かない」とは、まさしくこのことであろう。
小学校3年生の時、母親の仕事(歯医者)の関係で、今までよりちょっとだけ都会?のとなり町に引っ越した。このことは、それ以降のいくつかのトラウマ形成に大いに貢献することになる。そして、今から考えると、この「引っ越し」は人生の第1ターニングポイントとなったと言っても過言ではないかもしれない。
そこには金光(こんこう)教と言って日本3大新興神道の一つの本部があり、その中に少年少女会(ボーイスカウト・カブスカウト)という子どもの育成のための組織があった。我が家は金光教ではなかったが、なぜだか、またまた、そこに入れられたのだ。
こうしてみると、ピアノといい少年少女会といい、私の母親は相当な教育ママであったようだ(苦笑い)。
そして、その少年少女会の中に鼓隊なるものがあった。
鼓隊と言っても皆さんにはわかりにくいと思うが、当時、鼓笛隊と言って、笛とマーチング用の小太鼓・大太鼓そしてシンバルなどによって構成されたアンサンブル(器楽合奏)が、小学校など教育現場で盛んであった(今でもあるのかな?)。そして、その中から笛を抜いたものが鼓隊なのである。
当然、その鼓隊にも自動的に入ることになったのだが・・・。
あきません。手が不器用なのか、それとも緊張型のせいか、はたまた取っつきが遅いスロースタータータイプだったせいなのか、理由は定かではないが、何しろ なかなか上手く叩けないのだ。
上手く叩けないとなると面白くないから練習に出ない。そうするとますます上手くならない・・・。ピアノと同じ悪循環の中に入ってしまった。ア〜ア・・。
金光教には年に2回、春・秋の大きな祭りがあって、当時、全国各地の少年少女会による鼓(笛)隊が競って街中を行進したものだ。
そんなこんなでまったく上手くならない子も、なぜか(不公平にならないようにと思ったのか、子どもが足りなかったのか)大祭の時には行進に無理矢理かり出されたのである。
小太鼓はほとんど叩けないし覚えてないからダメ。大太鼓は重要だから当然ダメ。残るはシンバルしかない。しかし、そのシンバルもまともに覚えてない。
普通なら、そこで「こりゃあ使い物にならん、もうやらなくていい」と言うことになるはずなのに(密かにそれを期待していたのだが)、ところが「適当に大太鼓に合わせていればいいよ」ときたもんだ。ウ、ガーン・・・な、何なのだ!!。
自分がまったく出来ないことは自分が一番よく知っていたし、性格的にも「適当」が出来ないタイプであったから、自分にとっては「針の上のむしろ」以外の何者でもなかった。
そして、その不幸にもう一つ輪をかけたのが行進の隊列だ。
先頭は当然、指揮者。それから次が何と大太鼓とシンバルの2人だけ。そして、その後ろに小太鼓グループ。だから演奏者としてはシンバルは大太鼓と並んでグループの先頭を行進することになる。普通ならシンバルは華々しくておいしいポジションなのだが・・・。
想像できますか?まったく自信も何もない、そして人一倍恥ずかしがり屋の子どもがグループの先頭で演奏することの辛さ・恥ずかしさを。
まさに「市中引き回しの刑」に処されている気分であった。今、思い出しても居たたまれない。
結局、この「市中引き回しの刑」は確か小学生の間ずっと続いたと思うのだが、このことを境に「タイコは嫌だ!大嫌いだ!もう絶対やりたくない」というBad Image(トラウマ?)が自分の中にしっかり入ってきたのは、仕方なかったのではなかろうか。
それにしても人生はわからないものである。あれだけ嫌だったタイコをいまだに叩き続けているとはねぇ・・・。
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