トラウマ
テレビで、あるアーティスト(彫刻家だったと思うが)がインタビューを受けていて、「あなたの子どもさんたちは(アーティストとしての)良い環境におられますから、将来、アーティストになられるんでしょうね」という質問に対して、「いや、彼らはなれないでしょう。なぜならば、彼らにはあまりに影がないから」と答えていたのを思い出す。
そのことがほんとうかどうかはわからないけれど、アーティストにとって「影」の部分が、良きにつけ悪きにつけ大きな要素、すなわち〈カラー〉〈ニオイ〉になっていることは確かだと思う。
これから、わたしの「影」の部分を覗きこんでいってみようと思う。確かに暗重いテーマであるが、辛抱強くお付き合い願いたい。
幼稚園までは良家?のお坊ちゃんとして山野をころげまわりながら、のびのび・すくすくと健康的に育ってきたと思うのだが、小学校へ入学した頃から少しずつ「つらいこと」が起こってきたのである。
そして、この「小学校時代」が、私の今までの人生の中で「もっとも暗い時期」と言っても過言ではない状態、すなわち〈トラウマの宝庫〉になってしまうのである。
ピアノ(音楽・器楽トラウマ第1弾)
確か小学校2年の頃だったと思うが、消極的にピアノを習い(習わせられ)始めたのだ。
記憶では自分から習いたいと言った覚えがなく、母親が、自分の子どもの頃、習いたくても貧乏で習わせてもらえなかったから、我が子には是非とも習わせたいといった理由だったように思う。世の中的にはよく聞く話ではあるが・・・。
「消極的」から「つらい」に変わっていった理由の一つが、当時(今から40数年前)、私の住んでいた地域では、多くの田舎がそうであっただろうと思えるのだが、「ピアノは女の子のやるお稽古ごと」という雰囲気があった。現に、習いに行っていたピアノ教室では私以外ほぼ全員が女の子であった。シャイな男の子としてはピアノを習うことだけでも恥ずかしいのに、まして女の子ばかりのところへ入っていくことがどんなにつらかったことか・・・。
その上、ピアノの先生が「シャイで純情な男の子ゴコロ」を感じ取ってくれる優しい優しい先生だったら少しは救われただろうに、実際には正反対でヒステリックでちょっとコワーイ女の先生だったのである。(本当は優しい先生だったのかもしれないけれど・・・当時はそんな風に思えたんですよ。先生ゴメンナサイ)
まあ今(教える立場になって)から思えば、ほとんど練習をして来ない生徒だったから叱られて当然と言えば当然なんだが・・・。
アッそうだ!その《叱られ続けた記憶》が、今のコワーイ指導者O'BATAを形作っているのかもしれないなあ・・歴史は繰り返すと言うし・・・。ちょっとした発見。
笑うかもしれないが、ほんとうに日曜日(レッスン日)は毎週、毎週、Blue Sunday状態で、マジで腹痛を熱望し、何かのトラブルが起こって行けなくなることを心底から願っていたのである。
《後日談》
時期ははっきりとは覚えてないが、ソロを始めて何年か経った頃、生まれ故郷の倉敷でコンサートを開いた。その時、そのピアノの先生がご夫婦で聴きに来てくれたらしい。「まさか、あの子がねえ・・・」と、たいそうビックリされていたらしい。
とにかく、ネガティブな要素ばかりの「ピアノ」であるが、さらにもう一つ(苦笑い)。
それは、「面白くない」のである。
ピアノをちょっとでも習われた方はご存じだと思うが、当時、一番最初に「子どものためのバイエル」という教則本を使うのが一般的であった。現在は選択肢がもっと広がっているのであろうが。
ご多分に漏れず、私めもバイエルをやらされた。その中の曲の面白くなかったこと面白くなかったこと。エチュードだから面白くなくても当然なのかもしれないが、ほんの数曲以外はまったく弾く気がしなかった。そのことがますます練習嫌いにさせたのである。
まあ逆の言い方をすれば、「好きな曲」が少しでもあったわけであるから、まったくもって音楽が嫌いだったわけではないのである。いや、それどころか本当は(音楽が)好きであったし、どんどん大好きになっていったのであるが・・現在でも進行形・・。
結局、親に逆らえず「ピアノ」を驚異的に小学校6年までやり続けることになるのだが、ついにバイエルをやり終えることができなかったのだ。そのことがかなりの長い間、自分の中のちょっとした恥としてチクチクと痛んだことは確かだし、それ以降、何度も必要に駆られて「ピアノ」に挑戦し続けてきているのだが、何かが引っかかって前に進めないでいるのだ。
ピアノという楽器がけっして嫌いというわけではないのに・・・。
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