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第六回 「旅行」から「冒険」へのスイッチ。

チープだけど安全。古いけど清潔。
そんな安宿に泊まり、
現地の人たちと安酒を飲み交わすことができるようになったのは、
一人旅を楽しめるようになった、数年前から。
40代に突入してからのことだ。

20代の頃、自分にとっての海外旅行は、アクセサリーであり、
当時流行のデザイナーズブランドのようなものだった。

ニューヨークJFK空港へ向かう機内。
クリスタルのワイングラスに注がれるナパバレー産の良質ワイン。
座席テーブルには航空会社のロゴ入りテーブルクロスと
上質な厚手のナプキンにくるまれたずっしり重いカトラリー。
自分がアッパークラスの乗客と実感できる食事の時間が一番の楽しみだった。
空港には、いつもリモ(ストレッチリムジン)を待機させ、
イエローキャブ待ちの列を横目に、プラザホテルへと向かう。
海底トンネルを抜けると、そこはマンハッタン。
お金さえ出せば、誰でも、なんちゃってブルジョワを体験させてくれた。

30代は、家族旅行。
限られた時間にどれだけの感動を体験させてあげられるだろうか。
経験値を高めるための旅行にこだわった。
渡航先に最もふさわしい航空会社と搭乗クラスを選び
それぞれのクラスでの過ごし方、楽しみ方を教えたかった。
ファーストクラスでも、エコノミークラスでも、
その時の置かれた環境の中で「見つける楽しみ」を身につけて欲しいと願った。

厳選したハワイのサマースクールで英語漬けの日々。
バハマの無人島で野生のイグアナに囲まれたお正月。
MASAで人類最高峰の英知を見学し、
オーストラリアの広大な牧場で、くたくたになるまで走り回って遊び、
ラスベガスやニューヨークで、
洗練されたショーやミュージカルに、ドキドキした。
1年のうち1ヶ月を海外で家族と過ごしていた。

ハワイ滞在中、子供がサマースクールで楽しんでいる間の空き時間に
スキューバーダイビングを始め、1年でダイブマスター資格を取得した。
ダイブマスターはスキューバーダイビングのプロとしての認定資格。
認定を受けるにはそれ相当のスキルと知識、経験値と体力を要求された。
毎日のプールトレーニング、美しいデモンストレーション、
潜水医学から水中ナビゲーション能力まで、習得する科目の多さと
ハードなトレーニングで体重が5kgも減少していたことにも気が付かなかった。
無事目標を達成できたこと喜びだったが、
水中での危機管理能力を身につけられたのが、何よりうれしかった。
自分が納得できる「水中パスポート」を手に入れ、
さらに水を得た魚のようにハワイの海底を堪能した。



ハワイでの潜水本数を重ねるうちに、
「もっときれいな海」「手つかずの自然」を
探したい衝動に駆られていった。
「もっときれいな海」「手つかずの自然」は
リゾートホテルが建ち並ぶ、快適おしゃれ空間には存在せず、
人が行かない、行くにはとても不便な場所にこそ、求めている海があった。
ごく自然に「高級志向」ではない「冒険旅行」へと気持ちがシフトしていった。

しかし、いきなりバックパックを担いで、見知らぬ土地を渡り歩くような
旅行スタイルに転身したわけではなかった。

最初の冒険旅行は、ダイビング専門旅行代理店にオーダーする手配旅行。
到着空港から、手配したワゴン車に乗り込み、
現地ガイドが、ダイビングショップや宿の手配など、
身の回りの世話をやってくれる殿様旅行からのスタート。
それ以外の旅行など、頭の片隅にさえなかった。

しかし、「冒険」と言っても所詮、手配した代理店まかせの完全受け身旅行。
染みついた「リクエスト通りにアレンジ出来て当たり前」の感覚は
行く先々で不満と直面した。
「自分」と「日本の常識」を世界中に持ち歩いているのだから、
うまくいくわけがないということに、
気づこうともしなかった。

ある時、セブのマクタン島から
現地ダイビングショップ主催のオプショナルツアーで、
セブ島の西側にある「モアルボアル」という小さな村へ、ショートトリップした。
1台のワゴン車に5人の日本人ダイバーと現地ガイドを乗せ、
片道4時間かけて、村へ向かった。
混沌としたセブ市街地をぬけると、未舗装道路の並木道が続く。
どこか懐かしい風景。自分が幼い頃、
日本にもうこんな風景は残っていなかったはずなのに。
リヤカーを牛に牽かせるおじいさんや、
ジャングルを切り開いた街道沿いで生活を営む人たちと、
「海馬」に記録された遠い記憶を、重ねようとしていた。

車はゆっくり減速して、簡素な小屋のパン屋で止まった。
ガイドの「ネルソンくん」が、自分の朝食用菓子パンを選んでいる。
自分の分だけ買うのが悪いと思ったのか、
日本人5人分のパンを、ポケットマネーから出してくれた。
フィリピン人ダイブマスターの月収は1万円に満たないのが相場。
そんな彼が買ってくれた1個5円のパン。
とても不思議な感覚に包まれた。
フィリピンという国で、こちらが何かを与えることはあっても、
何かをもらうなんて考えたこともなかった。
軽く、ここちよい衝撃が走った。
しかし、せっかくもらった菓子パンを、自分は口にすることはなかった。
「フィリピン=不衛生」「田舎の屋台=不衛生」のイメージ。
これから海に潜ろうかというときに、変なリスクを背負いたくなかったのだ。
ネルソンくんに見えないよう、カバンにそっとしまい込むのが
その時の自分にできる精一杯の好意へのお返しだった。

モアルボアルへ到着すると、すぐにダイビングポイントへ向かった。
バンカーボートという、小さな舟で10分。
小島周辺のドロップオフは、まさに「竜宮城」だった。
原色のテーブル珊瑚。南洋特有の色とりどりの魚が無数に群れている。
自分の人生で出逢った最高の美しい風景だった。

感動のダイビングを終え、興奮さめやらぬ中、村の食堂でランチタイム。
2本目のダイビング開始までに少し時間があったので、
小さな広場を囲むように並ぶ、
数軒のダイビングショップを時間つぶしに覗いてみた。
壁に書かれた料金表、
2ダイブ料金がたったの25ドル。追加1ダイブ8ドル
ワゴン1台往復40ドル(5人で割れば一人8ドル。)に、愕然とした。
ランチ2ドルを足しても合計35ドルのツアーに、
自分は150ドルも支払っていたのだった。

その時、背中から脳天に電気が流れたことは今も忘れられない。
そして、脳のどこかにスイッチが入った。

アメリカナイズされた消費思想で、お金を出しさえすれば、どこにでも行けるし、
旅先でガイドを使えば何だって出来るという感覚に冒されていた自分。
「お金を使うのがカッコいい、偉い人間」と、
チヤホヤされ喜んでいたその裏側では、
無知で何も出来ない観光客から、いくらでもぼったくってやれとばかりに、
不当に高い料金を請求していた旅行会社が、札束を抱えて高笑いしていたのだ。

「お金を払う偉いお客様」の構図が、足下からガタガタと崩れていき、
カモにされていた「情けない日本人の自分」がそこにいた。

この現地ショップで、予約用の電話番号が書かれた料金表をもらった。
村にはまだ電話がなく、ダイビングは予約なしでもOKだが
空港からの送迎は、セブ市内のショップで予約受付していると教えてもらった。
また広場周辺の宿を見て回り、自分のテイストに合う宿をリストアップした。
余談だが、このときフィリピンには
「便座がない洋式便器」というものが存在することを知った。

私の行動に興味を持った他の日本人ダイバーが、不思議そうに話しかけてきた。
これまでのいきさつを話すと、4人も同じように驚き、同じように腹を立てた。
そして、私のリベンジ計画「自主手配ダイビングプラン」に賛同し、
次回、同じメンバーでもう一度このモアルボアルに戻ってくることを誓い合った。

ここから、「チープな旅を楽しむ」という構想の原型が生まれた。
そして、自分で手配できる歓びを知り、自分で交渉できる自信へとつながり、
自分で組み立てる旅へと進化していった。

楽園探検隊のお気楽情報
002 誰にでも楽園
「ハワイ」<2>

楽園探検隊のお気楽情報
001 誰にでも楽園
「ハワイ」<1>

第七回
「冒険」へのスイッチ。
達人は大観す!?

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