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第三回 ガンジス河を下る(1)

ユーラシア大陸 vs.インド亜大陸

プレートテクトニクス理論、いわゆる大陸移動説ほど人の想像力をかき立てるものはない。地球の表面は、プレートと呼ばれる10数枚の岩盤で覆われ、内部のマントルによる熱の対流によって移動し、衝突したり潜り込んだりしているという。その結果、山脈、海溝、海底山脈の形成や、地震・火山活動を引き起こしているわけだ。

インド亜大陸の北にはヒマラヤ、カラコルム山脈など、12もの8,000m級の山々が集中しているのはご存知の通りである。約2億3千万年前の中生代初めには、地球上にはたった一つの陸地しかなかったらしい。それが1億8千万年前の中生代中期に二つの大陸に分裂、6500万年前には再分裂して、ほぼ現在の陸地が形成され、移動を開始したそうである。
 もちろん、これらのプレートは地球上のすべての大陸を支えており、ユーラシア大陸だけに限ったことではない。ちなみに地図で大西洋両岸の海岸線を眺めると、お互いの形状はかつて分裂したと思わせるに充分なほどよく似ている。

インド亜大陸を乗せているインド洋プレートが北上して、ユーラシアプレートに衝突、その圧迫で隆起したのがヒマラヤ一帯である。プレート同士の境界はテテス海と呼ばれた古代の内海だったから、世界の尾根から海の生物の化石が発見されるのもうなずける。そういえば海抜1,500mのモンゴルの草原は、恐竜の化石や深海生物の化石の宝庫でもある。


ヒマラヤ山系とチベット高原(左上)を撮影したNASA衛星写真(高度約450km)
右下が北インドのヒンドゥスタン平原とガンジス河

現在でもインド洋プレートは年間5〜6cmのスピードで北上しているそうで、その分ヒマラヤも少しずつ押し上げられるのだが、秒速80mものジェットストリームが削り取るために相殺されているそうな。一方、二つのプレートは、山脈だけではなくその麓に巨大な地盤陥没地帯(地溝)をつくりだす。そこへヒマラヤ山脈の氷河を水源としてガンジス河、インダス河と無数の支流が流れ込んでくる。これらの水系が土砂を堆積し、西はパンジャブから東のベンガル湾まで続くヒンドゥスタン大平原を形成した。平原に堆積した土砂は深さ2000mにもおよぶという。


ヒンドゥスタン平原、見渡す限りの菜の花

ガンジス河1,000kmの旅

もう10年近く前になるが、ガンジス河流域沿いに撮影取材の旅に出かけたことがある。デリーからマトゥーラ、アグラ、ヴァラナシー、アラハバードを経てカルカッタまで鉄道を乗り継ぎ、短距離は車で移動しながら取材した約1,000kmの旅だった。
 ヒマラヤ山中を源とし、途中幾多の支流を集めて北インドを横断してベンガル湾にそそぐガンジス河は、ヒンドゥスタン平原に豊穣をもたらし、インドの民から『母なるガンガー』と崇められてきた。ガンジス(Ganges)河がガンガーとも称されるのは、ヒマラヤの娘として天界で育った女神ガンガーが身を清めた聖なる河という神話に由来する。だからガンジス流域にはインド人にとって聖地が多い。ヒンドゥー教徒の人生至高の願いは聖地巡礼に赴くことだが、ヴァラナシー、アラハバードはその最たる聖地である。ヒンドゥー教徒にとっての最高の歓びはガンガーで沐浴し祈ることであり、ひいてはガンガー河畔で死を迎え、荼毘に付されて骨や灰を聖なる河に流してもらうことだという。


ガンジス河の夕日(ヴァラナシー)

ガンジス河流域の人びと点描

旅は2週間にわたり、各地の風情や人びとの素顔に出合ったが、その一瞬一瞬が強烈かつ鮮やかに記憶に刻み込まれている。今回は、ガンジス河流域に暮らす人びとの姿をいくつか取り出して点描してみよう。

◆もう一度逢いたい少女



ラール・キラー(Lal Qila)は、ムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが17世紀半ばに建立したデリーの居城である。首都のオールド・デリーと呼ばれる一角を圧する巨大な歴史的建造物だ。赤色砂岩づくりの高い城壁が眼下の街並みを睥睨するかのように聳え立つ。ラール・キラーとは赤い城という意味で、ほとんど真紅に近い色で、遠くからでもすぐそれとわかる。
 城内のある建物の前で一人の少女を見つけた。美少女といってもいい。少女にレリーフを施した大理石の柱の前に立ってもらい撮影した。彼女は嫌がらなかったが、われわれの撮影指示に寡黙に従ってくれた。撮影後すこし話したところでは、近くに住んでいて、放課後見学に来たという。10歳前後にしか見えなかったが、実際は16歳であった。後日この撮影取材の旅の記録は『インド逍遥』(七賢出版)と題する写真集として出版されたが、この少女はその表紙を飾ることになった。スケジュールに追われて住所も名前を聞きそびれてしまったが、もう一度逢いたいものだ。

◆スカンドラ地方の農夫


ヒンドゥスタン平原は限りなく広い。タジ・マハールで有名なアグラ郊外、スカンドラ地方を走っていたとき、およそ目の届く限り地平線に広がる菜の花畑(上の写真)に入り込んだ。撮影が終わりかけたころ、鍬を手にした二人の農夫が近寄ってきた。農地に入り込んだわれわれを咎めにきたのかと一瞬緊張したが、そうではなく好奇心からだった。ひとしきり話を交わしたものの、英語を話してはくれるのだが訛りがきつく、キーワードを拾って類推するしかない。息子たちの何人かがここに近くの聖ジョン・カレッジ(英国が設立した、政治学では有数だと後に聞いた)で勉強中、と誇らしげに語っていたのが印象的だった。記念にインスタント写 真を進呈、嬉しそうに懐にしまいこむ二人に別れを告げた。朝8時のことだった。

◆放牧地を行く農婦たち


ヴァナラシーの約130キロ西、ガンジス河とヤムナー河が合流するところがアラハバードだ。古代アショーカ王時代(紀元前3世紀)の行政・経済の中枢都市であった。ヒンドゥスタン平原のほぼ中央部に位置する。独立後インドの政治を担ったネルー首相やガンジー一族の出身地で、街のたたずまいは瀟洒で緑あふれる家々の生垣やゴミ一つ落ちていない道路は、インドの他の都市では絶対といっていいほど見当たらない光景である。
 ヴァナラシーはガンジス河流域では最大のガート(沐浴場)が集中する聖地である。ここアラハバードもインド全国からの巡礼者で賑わう聖地なのだが、かなり観光地然としてしまったヴァナラシーとは違い、河岸に建物もなく、水際には沐浴と祈りだけのだだっ広い空間である。広大な河川敷には羊が放牧され少ない草を食んでいた。
 夕暮れのやわらかい斜光がひろがる、起伏の多い河川敷を一群れの農婦がゆっくりと進んでいった。地面の草とは明らかに違うみずみずしい植物を頭に載せ、家路をたどる一行である。かなりの距離を望遠レンズでとらえたものだ。インドの取材の中でも好きな写真の一つである。

※インド取材記録は折に触れて記す予定(連載ではありません)<筆者>

第八回
島嶼部アジア -インドネシア-
里山で遭遇した愛すべき生きもの

第七回
モンゴルの夏

第六回
ガンジス河を下る(2)

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