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「機転について考える」(3)
「当意即妙」願望
ところで僕の「機転が利かない」という話に戻る。
どうも僕には思考の速度が速くない、というか遅い傾向があって、これは僕が自覚的に子供の頃から感じていることなのだが、どうも「当意即妙」
というか「頓智頓才」というか、「才気活発」という部分がない。
あとになって「ああ言えばよかった」、「こう言った方が効果的だっただろう」、あるいは「こう言えばバカウケだったに違いない」、と後悔する
ばかりで、どちらかと言えば「沈思黙考」とか「端座瞑目」とか「脳内空白」(笑)の類い。いわゆる「脊髄反射」のようにパン、パン! と言葉
が出てくるタイプではないので、いきおいそういう反射に長けている噺家さんのような人達には無条件で「尊敬の念」を抱くことになるのだ。
だいたいにおいて、「自分がどう感じていたか」ということでさえ、ずいぶん後になってから「あーオレあの時こう感じて(考えて)いたんだ」と
気づくほどで、その時間差は年々長くなっているような気さえする。
これは文章を書いているときにも思うけれど、上下数行の世界では完結していることでも、全体を通して眺めるといささか論理が破綻していること
が往々にしてあって、その「破綻」を修正・改善するためにも、書き上げてからしばらくの間、その文章から目を切って離れる時間が必要で、これ
がいわゆる「塩抜き」と呼ばれる作業である。
こうして少しずつ積み上げていって、積んではいったん離れて時間をおいてまた戻る。その作業を繰り返すうちにやっとのことでひとつのロジック
が通奏低音のように流れている文章を完成させることができる。そんなタイプなんである。
もちろん高座を勤める芸人さんのように、当意即妙の受け答えができればそれに越したことはないけれど、どうやら僕にはこちらの「コツコツと積
み上げる方式」の方が向いているらしい。人間には向き・不向きというものがあるのだ、ということをまたしても思い知らされる、階上の住人との
会話だったのだった。
「憧れ」としての「丁々発止」はある。だからそれが希(まれ)にできたときに悦びを覚えて満足するに留めるべきで、そのための訓練を日夜続
けている芸人さんのようになろうと思うのは「分不相応」というものだろう。
ちなみにその「階上の住人」さんはどうやら服飾関係の販売をされている方のようす。なるほどモノの売り買いにもそんな当意即妙なトークは必要
なんであるなぁ、と無闇に感心をした次第であります。
そういえば「絵」を描いているときも「下絵」を描いてからいったん目を切って素に戻してからもう一度見直す、なんてことが多くなった。
若い頃はグイグイ下描きをするとすぐにその上からグイグイペンを入れて消しゴムをかけ、下描きの線を消しては仕上げて渡していた。今はそんな
こと怖くてなかなかできない。
できればひと晩、目を切って寝かせた下絵をもう一度トレースして単純な線に集約、さらにペン入れの際にはその線を修正しながら作業を進めて仕
上げるのが近頃の手順である。
思えば昔はずいぶん荒っぽい仕事をしていたな、と思うようになったのは歳のせいで、それほど技術が上がっていないことを自覚する経験値が上
がっただけである。
「ていねいに絵を描く」とかけて
「示談のうまくいった交通事故」ととく。
そのココロは「事後(自己)満足」。
おあとがよろしいようで。 |
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