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「機転について考える」(1)
利かない機転
その日は数日続いた涼しい空気が一転、本来の9月初旬らしい気温に戻り、まだ夏の名残健在なりと太陽が主張する、そんな日だった。
折しも仕事場のあるマンションは外階段の防サビ塗装の作業中で、エレベーターホールやエントランスには有機溶剤の臭気が充満していささか息苦しい。そんな日の昼過ぎ、銀行へ行こうとエレベーターに乗ると、階上に住む顔見知りの女性(おそらく同年配か少し上)と一緒になった。
彼女とはマンションの管理総会で話をするくらい、あとはすれ違いに気候の挨拶をする、というていどの顔見知りだが、それくらいの認識であってもうっすらと気心は知れるものである。「多少の軽口は通用する」、たしかにそんな感触はあった。おそらく向こうも記憶の引き出しの中で僕という人間を同じような「箱」に入れていたのだろう。こんな会話をした。
僕 「溶剤の匂いがスゴイですね」
女性 「『好き』な人にはたまりませんね」
僕 「そうそう、深く吸って肺にためてね」
女性 「クラクラッときたらもう、ね」
僕 「背中をピュ〜ッと冷たいものがね……違うから!」
女性 「笑」
そして和やかに笑いつつ一階に到着。エントランスのドアを開けながら
女性 「暑いわねー。なんか夏が戻ってきちゃって……」
僕 「でも今日だけらしいですよ」
女性 「そうなの?」
僕 「だってまだ9月のはじめですもんね」
女性 「そうよね。どこかお仕事でお出かけ?」
僕 「ちょっと銀行まで」
女性 「強盗ですか?」
僕 「いえ振込がね……」
女性 「ああ、詐欺?」
僕 「そうそう、ちょっと出し子で……違いますから」
女性 「笑」
そう言って別れたのである。
正直言ってここまで「くだけた」人だとは思わなかった。しかもこの応対ははっきり言って好みである。別れた後でもう少し上等な受け答えをしたかった、と後悔した。
せめて最初に「強盗ですか?」と聞かれたときには「イヤちょっと今日は機関銃忘れちゃって……」くらいのことは返したかった。いつも思うのだが、ことほど左様に僕にはこの「機転」というものがどうにも利かないのだ。
きてん【機転】
何か有った時にすぐ事態に対処しうる、機敏な心の働き。
【〜がきく】 [付記]「気転」とも書く。
(三省堂「新明解国語事典」)
きてん【機転・気転】
その場に応じた機敏な心の働かせ方。 [〜がきく][〜を働かせる]
(小学館 「大辞泉」)
ちなみに
【機】
(名)(前略)5.物事をするのに適したころあい。
物事の鍵となるポイント。(後略)
(形)1.頭の回転がはやい。手際がよくたくみなさま(後略)
(三省堂「漢辞海」)
で、「機転」の「機」はこの字が持つこの部分の意味を汲んだものである。これがどうにも乏しいんだな。いわゆる「丁々発止」の受け答えができない。「機転が利かない」のである。
ならば「自ら『昼行灯』と称して憚らない」くらいのことを尊大に言ってみたいものだがそれもできず、そういう自分にほとほと嫌気がさす、そんな瞬間だった。
<つづく> |
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