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「追憶のナイアガラ」(3)

『ナイアガラ体験』
 こんなことを書こうと思い立ったのは、実は一度このへんで僕にとっての大瀧詠一さんのことを書いておきたいと思ったからだ。

 ここまで書いたことからもわかるように、この「住所変更」をした時点までに僕が聴いてきた「音楽履歴」のなかには子供の頃、自動的に耳に入ってきた流行歌以外に日本の楽曲は入っていない。

 小学生時代後半に同級生逹が「ちびっこのどじまん」を見ていたときも「スーパースリー」や「河童の三平」を見ていたし、中学に入って皆がこぞってグループサウンズを聴いていたときも英米のポップスばかり聴いていた。たぶん日本のバンドでレコー ドまで買って聴いていたのはフォーク・クルセイダーズくらいだと思うが、これもその音楽に「笑い」の要素が入っていたからで、聴いてからは好きになったけれど、そのきっかけは彼らの音楽性ではなかった。

スーパースリー 
https://www.youtube.com/watch?v=PE-3RByHqXM 
河童の三平 
https://www.youtube.com/watch?v=OdzHtuU8TWU

 そんな僕が大瀧詠一さんの音楽に触れたのは高校卒業後、一年間を置いて入学した大学の2年生の時のことだった。定期試験を受けるために着席した教室の机の中に、はっぴいえんどの「風街ろまん」」と大瀧さんの「ナイアガラ・ムーン」、「ナイアガラトライアングルVol.1」の3枚が入っていたのである。家にこっそり持ち帰った。ようするにネコババしたのだ。

 「はっぴいえんど」の何曲か、「空飛ぶくじら」や「風をあつめて」は高校時代に聴いて知っていたが、解散後の各メンバーが出したアルバムはナイアガラ・シリーズをふくめてその楽曲は聴いたことがなかった。

 そして聴いて愕然としたのだ。「これが日本人の作った音楽なのか」と。日本の空気と海外の楽曲が持つ「熱」のようなものが混ざり合い醸成して立ち昇り、その熱気が天空に向けて広がっていく、それまで僕の知らなかった広くて見通しのいい野原に出たような気がしたのだ。

 数年後、ウエストコーストからサザン・ロックへ引っ越し、さらにニューヨークへ移ってパンク、ポスト・パンク、インダストリアルの音楽を聴き、ロンドン、ベルリンの状況をのぞいている傍ら、僕はずっと大瀧さんの音楽を聴いていた。そして彼の情報からフィル・スペクターを、リーバー&ストーラーを、さらにギャンブル&ハフ、キング&ゴフィンに出会い、それらを経てブリル・ビルディングの扉を開けた。そしてさらにその奥をのぞいて迷子になった。一介のイラストレーターにとって「音楽の森」は広すぎた。

 後に疲れて再びナイアガラの門を訪れると、その音楽の中には秘密の扉がたくさんあって、どこを開いても芳醇な水が湧き出るように感じられて目を見張るばかりだった。彼の音楽には秘密がある。そこにはイギリスとアメリカと日本の「ポップス」のエキスが緻密なモザイクのようにちりばめられて、絶妙なバランスを保っているように見えた。

「すべてのことは連携している」というのは彼がよく言うことだった。その真偽も、そしてその言葉の真意も語らないまま、ふいに僕らの前から姿を消してしまった今、まるで「答えのない楽しい謎々」がたくさん詰まった大きな箱を目の前にして、呆然とたたずむしかないような気持ちなのだ。

 しかし、今でもプレスリーやニューオリンズの古い音源などを聴いていると、ふいにナイアガラのフレーズが耳に飛び込んできて「アレはコレだったのか!」と驚くのである。

 そしてそんなことに気がついて、ふと音色の向こうをのぞいてみると、そこに「フフ、よく気がついたね」とでも言いたげに、彼が立っている。それはまるで「砂浜で砂遊びをしていたらそこに真珠があることに気がついた」時のような嬉しい発見で、だからまた彼に会うために、というのが僕が音楽を聴き続ける理由のひとつになった。

 彼についてはいわゆる「ナイアガラー」の爪の先にも遠く及ばない知識しか持っていないけれど、おそらく軽妙洒脱に見えて重い荷物も抱えていたに違いないと推察する。そんな混沌の中から「美しくておもしろくて楽しいこと」をたくさん編み出してくれてありがとう。ゆっくり休んでください。でも「アメリカンポップス伝」は完結して欲しかったな。また今度よろしくね。R.I.P.大瀧師匠。

「ゆれる防衛本能」
(5)
見ざる聞かざる嗅がざる

「ゆれる防衛本能」
(4)
「無音」の恐怖

「ゆれる防衛本能」
(3)
音は知らせる

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