Vol.16
『メディアリテラシーの根底にあるもの』
「情報のいたちごっこ」の螺旋から逃れる方法はあるか?
メディア・リテラシー(英: media literacy)とは、
情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、
その真偽を見抜き、活用する能力のこと。
<ウィキペディアより>
最近、ある仕事でメディアリテラシーのことをずっと考えている。
僕は以前「経済ニュースは嘘をつく」という書籍を執筆した。その本は、金融市場がどれほど情報によって左右されるものか。そして「情報というものは如何に曖昧なものか」ということを掘り下げた書籍だった。そして、「完璧な情報」というものは存在しないため、ある種のテクニックを使ってその情報によって「騙される」「損をする」ことを回避するのを伝えるのは有意義なことだと思っていた。
その執筆から数年経ち、改めて情報というものを掘り下げる機会に恵まれた。メディアリテラシーとはそもそも100年近い歴史があり、カナダやアメリカイギリスなどでは学校教育に導入されているような体系化された学問だ。様々な知恵とテクニックがあり、それを知ることはもちろん悪いことではない。例えば、情報には「権威性」、「中立性」、「有名性」などが付帯する。また「一次情報」、「二次情報」、「三次情報」などの区別もあり、例えば動画情報であれば、編集者の恣意的なイメージの挿入のためのテクニックも多数ある。もちろん、そういった知識やテクニックを知っていた方が、情報の芯の部分を知り得る可能性が高まる。
また、そういう原稿を書こうと思っていた。そういう知識をかみ砕いて読者に伝えることは、そんなに難しいことではない、と。しかし書き進めるうちに、根本的な問題に行きついた。現代人がメディアリテラシーを学ばなければいけないそもそもの理由はなんなのだろうか、というものだ。
「情報の非対称性」という言葉がある。その言葉を最初に使ったのは、アメリカの理論経済学者ケネス・アローであるが、「情報の非対称性」が利益を生むビジネスはかなりたくさんある。
よく例に挙げられるのが、中古車販売業だ。中古車販売業者(売り手)は、商品であるその中古車の品質を良く知っている。しかしお客さん(買い手)は、その商品の良し悪しをよく知らない。少なくとも、売り手よりは知らない。つまり両者には「情報の非対称性」が存在している。そうすると、売り手は買い手の無知に漬け込み、「この車の品質はいいですよ」と情報に、ある種の『思惑』のようなものを付加させる。これは、お金を稼ぐための行為で、別に責めるような類の話ではない。
程度の差はあれ、売り手側は、人にちょっと嘘をついてでもお金を稼ぎたいと考えるものだ。そして、買い手側にも、できるだけ安く楽にいいものを手に入れたい。つまり両者とも「得をしたい」のである。お互いが得をしたいと思っているということは、その情報戦の中でクレバーな方が得をするし、負けた方が損をするという構図だ。ぼくはこの状況を「情報のいたちごっこ」と名付けてみた。そして、新しいメディアリテラシーの技術を考えるよりも、この「情報のいたちごっこ」の問題を解消するための根本的な解決策は何か、と考えをめぐらせてみることにした。
最初に考えたのは、人が「相手よりも得をしたい」という気持ちを全人類がなくすという、まるでジョン・レノンが描いた理想の世界だった。「相手より多くを欲したい」という人間の根源的な「所有欲」がなければ、情報発信者が恣意的なバイアスを情報にかけることはなくなるはずだ。
例えば、売り手が買い手の実の親だったらと考えてみる。常識的に考えて、子供を愛する親とその子供が売買交換をする場合、売り手である親が「こいつからもぎ取ってやろう」という心理は減少すると考えられ、つまり恣意的な情報は理論的にはなくなる。理論をあえて飛躍させてみれば、同様の理屈で、隣人の子を我が子のように愛し、隣国の人を自国の人のように愛せれば過度な所有欲はなくなり、「情報のいたちごっこ」の存在自体が消滅するかもしれない。
しかし、ジャック・アタリやジョン・ロックの名を引き合いに出すまでもなく、「相手より多くを欲したい」という所有欲は歴史上ずっと人間が持ってきた欲望なわけだし、現在世界を取り巻いている資本主義は、それを肯定したシステムである。資本主義は、「私的所有」と「自由競争」によって構築されている。私的所有の差が「格差」だ。今世界を取り巻いているシステムは、この格差を肯定し、自由競争を推奨している。結果、「1%の富める者と、その他99%」という今の世界が出来上がった。
もう一つの方法は、(理想論であることに変わりはないが)もう少し現実的な方法だ。それは、個人個人が「精神的な充足に依拠する」というもの。上記のような所有の欲望がありつつも、反面、人間には、金だけあれば、人よりも多く富を持っていれば幸せだというわけではないという二面性がある。いいものを作って人を喜ばせたい、自分の行動で人に感動を与えたい、結果として人に認められ、自分で自分を誇らしく思えるという、(現代の文脈においてはある種崇高な)精神がある。先の行為が「物質的な充足」を目的としているならば、これは「精神的な充足」を目的としている。この二つは、常に個人の中でバランスを取っているのではないだろうか。
少し脱線するが、去年から今年にかけて、中東や中国、アメリカなどで起こっている各種のデモは、物質的な充足を過度に追い求めた資本主義社会の亀裂を象徴しているという声もある。
話を元に戻そう。すごくミクロで感覚的な話に依存してしまうのだけれど、精神的な充足に重きを置く仕事をしている人が僕の周りに何人かいる。そういう人は、メディアリテラシーのことなど知らないが、「思惑」が付帯した甘い情報に対して、とても冷静で鋭い視点を持っている。たぶん、「情報のいたちごっこという螺旋から、少し離れたところにいるからだと思う。そういう人は、物質的な欲や、楽して得をしようという概念が稀薄なので、そういう欲が付帯した情報を冷静に見ることができるのだと思う。
とすると、物質的な充足に傾きすぎる傾向のある現代におけるメディアリテラシーの基本とは、やはり精神的な充足に依拠するべきだと言えるのではないか。これが、現時点におけるぼくの行き着いた答えだ。そして次の問題は、自分にとって何が精神的な充足たり得るか、ということだ。それが仕事で得られる類のものかもしれないし、趣味で得られるものかもしれない。よくわからない。一つだけ言えるのは、この精神的な充足に、一面的な正解はないということだろう。おそらくぼく自身の体験としても、そんなに簡単に得られるものではないと言える。継続的に探す努力が必要とされるだろう。最も大切なのは、探し続けるという意思を持つことなのかもしれない。
この仕事を通じて、自分なりに、この答えが導き出せればと思っている。
2012年11月3日 高橋 大樹
HP「高橋大樹のマーケット放浪記」
http://hirokitakahashi.com/
連載(毎日更新)commodity-board.com
https://commodity-board.com/2011/05/post-6345.html
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