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Vol.9 
現代というシーソーに乗せる
“重し”としての「いましろたかし」


≪心に突き刺さる“何か”がある≫
それが「傑作」の条件である。

 いましろたかしという漫画家をご存じだろうか。あまり有名ではないかもしれないが、間違いなく、傑作を作れる稀有な作家の一人だ。

  ぼくは大学の頃、彼の本をよく読んでいたのだが、社会人になってからずっと離れていた。しかし、つい数週間前、ぼくはあることをきっかけに、押し入れに突っこんでおいていた彼の本を引っ張り出し、離れていた時間を埋めるように、明け方まで読み続けてしまった。

 そのきっかけとは、電車の中で見た女装の男だった。

 満員電車の浅草線。170センチほどの背丈に15センチはあるハイヒール。そこら辺の男よりもでかい。一目見てわかるその風貌に、乗客は見て見ぬふり。“存在を意識しない”という共通認識のようなものが、即座に乗客に伝播する。
 しかし女装の男は、そんな空気を望んでいるようだった。(想像だけど)、恥ずかしいけど悪くない気分という感じなのか、恍惚とした表情を浮かべている。
 その姿、まさに、異形の人であった。ただ、それは非現実的な異形ではなく、そこに実在する異形である。

 その光景が、ぼくの中に眠っていた「いましろ」を思い出させたのだ。

 いましろの作品にも、フルフェイスのヘルメットでカツラを抑え込み、原チャリで首都高を走り抜ける女装趣味の男が登場する。
 その他にも、彼のマンガの中には、本来ひかりがあたるはずもない人間が多く登場する。
 「すいません、今日は何曜日ですか」と質問し続ける頭のいかれてしまった男。吉野家の牛丼に死ぬほど紅ショウガを入れて食い続けるダメなサラリーマン。一日中自慰を続け、発射のごとに「くだらない」とつぶやき、自己嫌悪を膨らませていく男などなど。

 彼らはみな、見て見ぬふりをされる人間。
 無駄なことをし、愛されない人間。
 生産的な人生を送らない人間。
 日陰の人間。 

 彼らを描くことに、意味があるのだろうか。

  僕は、あると思う。
  なぜか。
 いましろ氏が描く“彼ら”は、僕らとはかけ離れているが、じつは“僕ら”そのものであるからだ。
 人は少しずつ“無駄”で、“狂って”いて、ちょっと“おかしい”のが当たり前だ。だからこそ人間たりうる。

 現代日本の資本・民主主義社会では「前向きであり、他人と仲良くし、空気を読み、他人から愛され、生産的で合理的である」ことを強要される。
 また僕らは、そうでないことは悪だと、そうでない自分に罪悪感を持つ傾向がある。ぼくも、きっとあなたもそんな社会で、ぎりぎりで生きているのではないだろうか。
 本当は、それと同じぐらい「後ろ向きであり、他人と共存できず、空気も読まず、他人から愛されず、非生産的な」ことが大切なのではないだろうか。
 きっとそれらの両方が存在して、はじめて正しいシーソーが作られるのだ。

 いましろたかし氏が描く世界。
 それは、けっこう重たい。
 だがその重みは、「プラスの面に傾きすぎた」現代というシーソーのもう片方に乗せるに、ぴったりの重量なのである。

いましろたかし作品群
http://p.tl/P9Cj



HP「高橋大樹のマーケット放浪記」
http://hirokitakahashi.com/

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https://commodity-board.com/2011/05/post-6345.html


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