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Vol.2 清く、正しく、“汚らしく”生きること


先日、初めて“死臭”というものを嗅いだ。

祖父のものだ。



今年の1月1日に90歳になる祖父は、ここ数カ月、
死ぬことを前提に病院で生きていた。
固形物はほとんど口にすることができず、点滴で栄養を摂取するのみ。
体力がないため、肝臓を蝕むガン細胞に対しては、
なんの対抗策も講じられなかった。

「いよいよ弱ると点滴の針が血管に刺さらなくなるんですよ」
そう看護師に言われた。
そこからの延命措置としては、胃に穴を開けてチューブで栄養を送り込んだり、
鼻から管を入れて補給したりなどがあるらしかった。
そのような今後の措置を決める前に、祖父は息を引き取ってしまった。
病院から連絡があった30分後…あっという間の出来事だった。

数日後に葬式が執り行われた。
子供でもあるまいしちょっと恥ずかしいが、
身内の死が初めてである僕にとっては、その全てが衝撃的だった。
死後数日経過した老人の眼球が−重力に逆らえないまま−、
顔面に沈んでいくその様や、
筋肉の無さゆえにどうしても開いてしまう口元など、
死体に慣れていない僕にとっては極めてショッキングな絵だった。

もっとも印象的だったのは、
呆然とする中で嗅いだ祖父の“骨の匂い”だった。
焼かれ、白い塊になった祖父を箸で骨壷に入れる際、
僕は意図的に思い切り鼻で息を吸い込んでみたのである。
祖父の骨の匂いは、透明で清潔感すら漂わせるものだった。
無機質、とでもいうべきだろうか。 その時僕は、祖父の肉体が、
もうこの世に存在していないのだということを実感した。

対照的なのは、何度も見舞いで行った病院で嗅いだ祖父の“死臭”だ。
病院で、死に向かっている頃の祖父の身体から発せられる匂いは、
とても強烈だった。
“生きる”ために動き、入れ替わりを続ける細胞。
少なからず消費する筋肉や皮膚や脂肪。
不要となった細胞は垢に、栄養分の一部は排泄物となり、異臭を放つ。
死ぬ寸前、とくにその動きが活発になるのかどうかわからないが、
とにかく祖父から発せられるその匂いは生々しく、
しかし生きていることを切実にぼくに訴えかけているようだった。

生きることは、当然ながら有機的な行為だ。
焼かれた骨のように、無機的ではない。
つまり生きるということは、必要条件的に“汚い”ものなのだ。
それは“健全な汚さ”なのである。

祖父のように、死ぬ寸前まで精一杯に細胞を循環させ、
“汚く健全に”生きることに努力しよう。
祖父の骨を前に、僕はひそかに、
―超個人的な−誓いを立てた次第である。。



HP「高橋大樹のマーケット放浪記」
http://hirokitakahashi.com/

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