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井上あきら習作篇 その二十 当季雑詠


「秋蝶」
抽斗にインクの染みや神の留守


松茸は香りづけなり土瓶蒸


秋の蝶まういづくへもゆかぬふう


鵙猛りガラスの谷に贄を刺す


肌寒しブリキの兵の凹みかな


ミラ−ガラスに紅葉かつ散り収斂す


女人高野紅葉かつ散るころならむ


天高し無垢なる青の底に立つ


八方へ通天閣の秋の風




<字句補足説明>
「神の留守」(かみのるす)が秋の季語 
陰暦十月の異称は「神無月(かみなづき)」
全国の氏神様が出雲に参集されるので出雲以外の地では氏神様不在で「神無月」
そこで「神の留守」が秋の季語になったとされる
逆に出雲では「神在月」というご愛嬌
奈良の高畑に作家の志賀直哉(1883〜1971)の旧居がある
1920年(大正9年)に「白樺」に発表した短編「小僧の神様」が評判になり
いつしか「小説の神様」と呼ばれるようになったとか
簡潔で美しい文体 無駄のない文章は格調高く 見習いたいもの
二階にある書斎の机の抽斗(ひきだし)手を触れてはいけないのだが
手が勝手に動き開けていた 底にインク壺から零れたと覚しき染みがベッタリ
神様でも凡人と同じようなミスをするのだと 可笑しくなったが 
見てはならないものを見た後ろめたさで すぐ元に戻した
この句 小説の神様の留守に抽斗のインクの染みを見て
可笑しみをかみ殺しているところ
 
「松茸」(まつたけ)が秋の季語
松茸は年々高価になって庶民の口から遠退いてゆく
それを 松茸が薄いとか小さいと嘆いていても始まらない
昔から<香り松茸 味占地>という
土瓶蒸の松茸は元来 香りづけが本意
この句 <松茸は香りづけなり土瓶蒸>と僻まず肯定的に詠んでいる

「秋の蝶」(あきのてふ)で秋の季語
「蝶」だけだと春 その他の季節は「夏の蝶」「冬の蝶」と季を補完する約束事
春 夏の蝶は元気に飛び回っているが 秋の蝶は 数も減りめっきり弱くなる
花壇の低い垣根すら越せない いや まう(もう)もはや越さないのだ
存念を定めた秋蝶 そこに秋の哀れ(あはれ)をみる季感
この句 花壇の日溜りを終の棲家と定めた 秋蝶の存念を詠み留めた
 
「鵙猛る」(もずたける)「鵙」(もず)が秋の季語 百舌とも表記
縄張りを表明するため 高い梢で鋭い声で鳴くのを「モズの高鳴き」
捕獲した餌を枝に刺す習性を「モズの速贄(はやにへ)」という
この句 「速贄」をして知らしめす「高鳴き」が
ガラスの都市では反響して一層鋭く聞こえる様子を詠む

「肌寒し」(はださむし)が秋の季語
前々回説明した 秋の皮膚感覚の微妙な表現の一つ その実践
ブリキ(オランダ語)は錫を鍍金した薄い鉄板 漢字で書くと「錻力」
プラスチックが登場するまで玩具は大半がブリキ製
ブリキの玩具の兵ではいかにも弱々しい ましてや凹んでいる
この句 「肌寒し」と「凹んだブリキの兵」との取り合わせの句
鋼鉄の兵なら こうは看過できないが
 
「紅葉かつ散る」(もみぢかつちる)が秋の季語
紅葉する木もあれば同時に散っている木もあるという様子
「かつ」は漢字にすれば「且つ」となる
二つの動作が併行して同時に存在することを表す副詞
この句 そんな紅葉の街路樹が遠近法のまま
大きなビルのミラ−ガラスにそっくり映り込んで収斂(しうれん)いるところ

同じく「紅葉かつ散る」という秋の季語
<女人高野>は室生寺の別称 真言宗の根本道場高野山が
厳しく女人禁制したのに対して室生寺は
女人にも開かれたところから名づけられた
石段(鎧坂)を登りきったところにある五重の塔の写真でお馴染み
奈良県の東方 三重県との県境に近い 宇陀郡室生村にある
皇太子の山部親王(後の桓武天皇)の病気平癒祈願のために
室生山の山中で祈願 快癒したのが信仰の起こりと伝えられている
寺としての創建は782年 法相宗 興福寺の修円が伽藍を造営
諸宗が運営に係わったがいまは真言宗
この句 <ころならむ>は目の前に見ているのではなく
心の中で想像しているところ <らむ>は「現在推量」の助動詞
つい最近 暮らし方研究会の力作「日本の民家」を見学するために
赤目まで行ったが室生寺には立ち寄れなかった 
その分よけいに思いがつのる
http://www.kurashikata.gr.jp/

「天高し」が秋の季語  秋高し 秋高 空高し
大気が澄みきった秋の青空を表してあまりある季語
正岡子規に<松山や秋より高き天守閣>がある
一点の曇りもない青空の下で見上げると
まるで無垢(むく)の青の塊りの中にいるようだ
 
「秋の風」が秋の季語
秋風(しうふう)金風(きんぷう)爽籟(さうらい)
身に沁みてそこはかとなく哀れを誘う季感
「通天閣」(つうてんかく)は古き佳き大阪のシンボルタワ−
現在の通天閣は二代目 1956年(昭和31年)に再建されたもの
そもそもの発端は遥か1903年(明治36年)
第5回内国勧業博覧会の跡地利用でできた
新世界ルナパ−クの初代通天閣 1912年(明治45年)に遡る
通天閣を起点に放射状の道路が作られた その骨格は今も残る
ミナミやキタの盛り場ができるまでは 新世界が最先端スポットだった
今また若者が「くしかつ」の店に列をなすリバイバル
この句 <通天閣に秋の風>ではなく<通天閣の秋の風>が
放射状の道を八方に吹き渡っている積極的な秋の様子を詠む

井上 明関連サイトリンク
暮らし方研究会
http://www.kurashikata.gr.jp

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