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「未熟とは「未(いま)だ熟さぬものの、やがて確かに熟するもの」のことをいう。いつまでも熟することのないものは「不熟」といい、結局は、熟することなくいのち果てるもののことだ。つまり「未熟」と「不熟」は対極(正反対)に位置するものである。というわけで「未熟なる若い衆」とは「有望な可能性に充ちた若者」の意味である。

第22回 人生街道の「追分」と「どうしようかな?」の時――。

●「追分」とは街道の分岐点のこと。
日本の民謡には『江差追分』『松前追分』『秋田追分』……などなどの名曲があります。
歌謡曲でも「昭和の名曲」と称される美空ひばりの『リンゴ追分』(作詞小沢不二夫 作曲米山正夫)があります。

●人生街道の「追分」
人間業をアレコレやってくると、その街道の道すじには、いくつかの「追分――わかれ道」に出くわします。
西か東か。右か左か……と戸まどいます。
小生の歩いた道には、いくつもの「追分」がありました。そのつど、行く先を示してくれるような「頼りになる人」がおりました。

●美空ひばりの『リンゴ追分』の作詞者小沢不二夫(1912年〜1966年 )は小生の母親の実弟――つまり小生の叔父で、享年54歳。早世しました。
あの「大都映画」のシナリオライターとして出発し、戦後は日本演劇史のエポックになった田村泰次郎原作「肉体の門」の脚本をはじめ、新国劇・新派・ラジオ・テレビのドラマをせっせと書きましたが……。
この叔父小沢不二夫が、物書き業本庄慧一郎の出発点になりました。

●B級映画といわれた「大都映画」には――。
『幻のB級!大都映画がゆく』(集英社新書2009年1月刊)にも書きましたが、この映画会社に、監督・シナリオライター・助監督・カメラマンという4人の叔父が働いていて、とにかく強い影響をうけました。



●その後、「時代」の荒波に翻弄されますが、父親の家業を継ぐのはイヤで、作家をめざします。

●満20歳の時、当時東大生だった柴田恵子(現在は樋口恵子)さんの大手新聞社の論文公募『二十歳の記』の入選作を読み、学業とは縁遠かった小生は「感想文」を送りました。
それが縁で、以来ずっと仲良くしてもらっています。



●その樋口恵子さんが劇作家三好十郎氏の劇団を訪問した後、「望田(小生の本名)さんは、三好先生にお会いになるといいのでは」と、すすめてくれました。
三好十郎氏(1902年〜1958年)はすでに叔父小沢不二夫と昵懇で、三好十郎主宰の『戯曲座』に研究生として入座。また、小沢主宰の『むさしの演劇ゼミナール』で戯曲や演出のべんきょうに努めました。





●その後、民放のラジオ・テレビで、生活費を稼ぐためのライターとなります。そこで若き日の小沢昭一青年とご一緒します。(以前にも書きました)




そして、やはり親しくお近付きを望んだお方は、大活躍していた桂小金治さん。また『テアトル・エコー』の総帥・熊倉一雄さん。




このお三方を(ゲーノー界というフィールドではとりわけ)畏敬してきました。
ゲーノータレントも大勢知ってますけど……ちょっとヘンな方が多いからねぇ。

●その後、CM制作のプロダクションをやっていましたが、資金ぐりその他のことでウロウロしていました。
突如、雑誌『東京人』の編集長粕谷一希さんに直接プロポーズ(企画のプレゼン)。即、快くOKを頂きました。前回もご紹介した雑誌『東京人』に『とうきょうヒッチはい句』掲載(1987年〜1991年)。
粕谷一希さんは、編集者としてはトップクラスのお仕事をしておられる方でした。




『戦後思潮/知識人たちの肖像』(藤原書店2008年10月刊)の裏表紙より




この粕谷一希さんにチャンスを与えられたことから「時代小説」への意欲がモリモリと高まるのです。

●やがて、CMギョーカイから逃げたくなり、つまり「追分」にさしかかり、「まとまった本」に挑戦します。
その第一作が小説『赤い風車劇場の人々/新宿かげろう譚』(影書房1992年12月刊)。




この影書房のオーナーが松本昌次さん。出版編集者としての実績は第一級で、小生の「処女作」をすんなり出版してくれました。




●CMプロダクションプロデューサー稲見一良さんとはいろいろ仕事をしましたが、1984年にこの稲見さんが「余命6ヶ月」というガンの宣告をうけます。その闘病姿勢は果敢で、3度の肝臓ガン手術をクリアして、その間、小説執筆に挑戦。そのことも瞠目するのですが。
『ダック・コール』(早川書房1991年2月刊)で第4回山本周五郎賞、第10回日本冒険小説協会大賞最優秀短編賞を受賞したのです。




その彼に「いいかげんにCMの仕事を切り上げて、望田サンも小説を……」と言われ、ベットの稲見さんにゲキレイされて――この「追分」でも、不屈のファイター稲見一良さんの助言に背を押されて行く先を選択したのでした。




●『問題小説』(徳間書店/現在は後身『読楽』)に紹介して下さった方がいて、プレゼン第一作目『火の女』にOKを頂きました。腕だめしにあれこれ書かせてもらって勉強になりました。
当時の編集担当の岩渕徹さんは現在、徳間書店の代表取締役会長です。
そして、その後、小生の担当の加々見正史さんは、現在の徳間書店編集部ノンフィクション部門の編集長であります。
おかげさまで、ここでも「追分」という分岐点をスムーズに通過したのデス。

●この頃、ハードボイルド時代小説で超の字のつく売れっこだった峰隆一郎さん(編集者諸氏は「気むずかしい先生」といっていた)が親しくして下さり、 また励ましてくれたのは、望外のヨロコビでした。
この「追分」でも、迷わずに歩を進めたのです。。




●そして現在――このGWの直前、2014年4月30日から埼玉新聞で『新・塙保己一物語/風ひかる道』が連載小説としてスタートしました。
この企画には、小生の筆名になった「本庄――埼玉県本庄市」の市民の皆さんとのイベント企画が関連しています。
このきっかけは、埼玉県本庄市の現県議をはじめ、市民代表の皆さんがいて――これもまた「もうひとつの人生街道の追分」として認識しています。

●つくづく思うのです。
「人生街道」の「道しるべ――追分」という分岐点に立った時、いつも「いい導き役」をになってくださる方がいたなぁ……という思いです。
なんとか物書き業の旅を続けられて……シアワセです。

小生の人生街道の「良き道しるべ」になってくれた皆さんに心から感謝です。

第25回
「それにしても……」
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