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暗い時期

私は小学校3年生の時、親の仕事の都合でとなり町に引っ越したのだが、それ以降の小学校時代は人生の中で最も暗い時期と言ってもいいかもしれない。
今回は、暗重い話ばかりで申し訳ないがお付き合いくだされ。

■イジメ

特にきつかったのは転校したことだ。転校生がイジメに遭うという話はよく聞くが、ご多分に漏れず、私の場合もイジメに遭ったのだ。

 そのとなり町には県下でもトップクラス(当時の話で、現在は定かではない)の私立進学校(中高一貫教育)があり、町の小学校が一人でも多くの生徒をその学校に入れるべく半ば予備校化していたのである。
 具体的に言うと、それまで行っていた学校では九九は3年から習う予定であったのに、今度の学校ではすでに習い終わっているといった具合なのだ。
 当然、習ってないことは出来ないよね。それまでは常にクラスで1、2番の成績だったのに、突然、テストで今までに見たことのないような点数を取りだしたからすごいショックだったことを憶えている。

 その上、遺伝性の近視(両親共に近視)で2年生の頃からメガネをかけだしていたのだ。
 でこそメガネをかけている子どもはあまり珍しくはないが、当時はほんとうに少なくて、まわりの子どもたちから「4つ目、4つ目」と言ってずいぶんからかわれたものだった。
 そして、当時のレンズは今のものと比べてずいぶん割れやすく、遊んでいる最中に何度かメガネを壊し、母親にずいぶん叱られたものだった。
そして、その影響だと思うが、運動することが極端に怖くなってきたのだ。特にボールがね。それまで天真爛漫にのびのびと育ってきた子どもにとって、このことは特にこたえたね……。

 勉強は出来ない、運動もダメ、挙げ句にわりと内気な転校生ときたら、子どもの世界ってある意味で厳しいから、当然、悪口、陰口、そして孤独になってしまうよね。

 ほんとうに寂しかった。ほんとうに辛かった。今でも、そのころの思い出と言ったら、泣きながら「死にたい、死にたい」とぶつぶつ呟きながら学校から帰ったことしかないくらいなのだ。

■恐怖

どうして引っ越すことになったのかは定かではないが、母親が歯医者をしていて、その営業のためには田舎よりも、ちょっとでも都会のとなり町が良かったのではなかろうか。
 そして最初の3、4年間は町の歯科医師会の建物を借りて営業していたのだが、その建物はかなり大きなもので、どういうわけか管理人のようなおばさんが建物の半分、すなわち一軒をシェアーするかたちで、ドア一つ隔てたところに独りで住んでいたのだ。

 そのおばさんがどうも精神的に問題があったようで、気持ち悪いというか怖かったのだ。
 例えば、ドアに向かって独り言のような言葉を夜な夜な喋っていたり、風呂に入っているとき風呂場の板壁から視線を感じたり、そして極めつけは、我が家の通用門を入ったところに物干し竿が置いてあるのだが、ある日、学校から帰ってきたら、その物干し竿に鶏の死骸がぶら下がっているではないか。ウー……その時の情景は今でも忘れられない……。
 ちなみにそのおばさんは被害妄想に陥っていて、私の親が彼女の飼っている鶏を盗むと近所にふれ回っていたらしいのだが、そのことを実証するために自らそういうことをしたのではなかろうか。

■体調

そんなこんなで精神的に最悪と言ってもいいほどであったから、当然、体調もあまり良くなかった。
 一つは、幼稚園の頃になった中耳炎。どうも慢性化させてしまったようで、ずーっと難聴状態。しょっちゅう学校を早退きしての耳鼻科への通院。これもかなり辛かった……。
 ちなみに現在はほとんど良くなっているが、それでも数年に一度、風邪や疲れから中耳炎になることがある。音に携わる人間にとってはなかなか辛いものがある。

 しかし、この難聴が今のO'BATAの「音への欲求」の源になっているのかもしれないがね。

 それにもう一つは寝小便。ほぼ小学校の間は治らなかったのだが、寝小便自体よりも、「小学校高学年になってもまだ寝小便をしている」と言われることの恥ずかしさの方が辛かった。

 とにかく心身ともに最悪だったのだが、しかし、しかし、神様はこんな真っ暗な子を見捨てはしなかった。「自分で自分を癒す術」を二つ与えてくれたのだ。

■「歌うこと」

確か3年生の頃だと思うが、町の少年合唱団に入った。
 そのことをきっかけにして、前述のごとく、ピアノ、タイコなどの器楽はまったくダメなぶきっちょ少年が、なぜか歌は性にあったようで、ススムの居るところはどこでもすぐわかると親に言わしめたほど、四六時中歌いまくりだしたのだ。
 特にトイレの中が一番好きであった(笑い)。そして、歌い方もふるっていて、大きな声で天空に向かって歌い上げるといった感じなのである。

 ちょっと話は飛ぶが、ソロ演奏を始めて以来、多くの人から「あなたの音楽は、通常の打楽器奏者のものとはちょっと雰囲気が違うが、それはどこから来ているのか?」とよく訊かれる。
 そんな時にたいてい「私は打楽器を叩いているのではなく、打楽器を使って歌い上げているのだ。そして、今の演奏のベースは、明らかに小学校時代にできたと思う」と答える。
 別に格好つけて言っているわけではなく、「歌うこと」と「叩くこと」が自分の中ではまったく同じ感覚だからなのだ。

 とにかく「尋常じゃあない歌キチ少年」(笑い)と言ってもいいほどだったのだが、今から考えると、歌が好きと言うより、「歌うこと」で寂しい自分自身を慰めていたとしか思えないのである。
その証拠に、歌っていた曲というか好きな曲ははほとんどが短調の曲、すなわち暗い曲ばかりであった。

■「空想すること」

もともと空想癖はあったのだろうが、この頃はすごかった。歌っていないときはほとんどブツブツと空想の世界で遊んでいるのだ。
 同じ部屋で寝ていた兄から「気持ち悪いからやめろ!」って、よく叱られたものだった。確かに今から考えると気持ち悪いよね(苦笑い)。
 では何を空想しているかというと、ある時はソフトボールの監督として運動の得意な同級生たちのチームを作って戦わせるとか、そしてある時は海軍の司令長官として戦艦大和を中心とする艦隊を指揮するとか等々……。

 遊び相手のいない少年がバーチャルな「遊び空間」を創りあげ、こちらも自分自身で孤独感を癒したのである。

 O'BATAの想像力は、この頃に培われたと言っても言い過ぎではないと思う。

 以上のように、この時期は自分にとって「暗黒の時期」と言ってもいいくらいなのだが、今になって思えば、この時期こそがアーティストO'BATAの「黎明期」と言っても過言ではないのではなかろうか。

 とにかく、思い出したくない、しかし忘れられない「最高の時期」なのである。

《2006年秋のコンサートスケジュール》
☆10/12(木)7:00pm 近江楽堂(新宿・東京オペラシティ3F)
(問)ハッピーサウンド・コミュニケーションズ tel.090-1312-3568

☆10/14(土)4:30pm 妙円寺(岩手県花巻市愛宕町7-53)
tel&fax 0198-23-5439
 
☆10/16(月)◎1部7:00pm〜 ◎2部9:00pm〜
ワインバー「ラ・カンテイーナ」(仙台市青葉区国分町3-1-4 B1F)
(問)ハッピーサウンド・コミュニケーションズ仙台 tel.022-273-8155

ほの暗・明るい時期

暗い時期

タイコ
(音楽・器楽トラウマ第2弾)

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