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其の六十七 Y運転手

駅から自宅までの帰り道は毎度タクシーに乗る。
貧乏性なので、誰に言うでもない言い訳を用意する。
仕事帰りで疲れているのであるし、人通りの少ない夜道であるし、
登り坂であるし、私は下戸なので飲み代も掛らないのだから
これぐらいの贅沢をしてもバチハアタラナイだろう。
ということで落ち着く。

小さな駅前のタクシーは同じ会社の車が数台で運転手の顔を覚えてしまう。
「最近、Yさんの顔を見ませんね」と若い運転手に話しかけてみる。

Yさんとは菅原文太が痩せ細ったような小柄なお爺さん運転手で
話も運転も上手だった。
自身の娘さんは絵が上手で銀行に勤めていたこと、
独身の息子さんと温泉旅行に行ったが自分が運転して行ったこと、
昔付き合っていた女性がダンサーだったので旅行に行ったとき、
部屋でくるくると回って見せてくれたこと、
高齢の同僚が運転手を辞めた途端にボケてしまった話。
地元の古城が鎌倉時代は妖怪城だったという話。
月の土地を買い占めようとする国がある話など。
ほんのワンメータのうちに聞く断片的な話は、極私的な話題から
抽象的なファンタジーまで。
いずれも自分とはまったく関係のない唐突なショートストーリーで
1日の終わりの5分番組のようだった。

丁寧な話し方の端々にべらんめぇな口調が覗く瞬間がある。
器用そうな美男子で人に好かれる気働きもあれば、
若い頃はそれでかえって脇道に引っ張られたのかもしれない。
そのために更に女性にモテたかもしれない。
そのために更に起伏の多い人生になったのかもしれない。
と私の妄想はとどまるところを知らない。

「先日、お客さんの荷物をトランクから出そうとして
腰をやっちゃったんですよ」
と若い運転手の声がした。
「前もちょっと腰痛でお休みしていたこともありましたが、
とうとうYさんも引退ということで。
もうとっくに80歳を過ぎてましたからねえ…」
「ああ、そうなの。それは残念だわね」

番組は突然打ち切られた。
もう二度とY運転手の車に乗れない。話も聞けない。
もう会うこともない。
何か、彼に伝えなければならないような気がするのだが
もうそれも叶わない。
もやもやと湿った溜息を吐いて私は車を降りた。

其の七十二
十分にご注意ください

其の七十一
一本木

其の七十
ダイヤと法灯

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