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其の十二 正座

深夜に犬の散歩に出かける。
街灯があっても曇り空や新月の夜は暗い。
人家のまばらな辺りは、門灯も窓からの灯りもないので、ひどい暗がりである。
そんなところで犬が糞をしようとして中腰になる。
そのために、わざわざ出て来ているのであるから、当然と言えば当然だが、
ここでは、糞を片付けるにも暗すぎて不便ではないか。
焦って、中腰姿の犬を強引に引きずろうとしたが、犬も用の途中では動かない。

仕方なしに、用の済むのを待って、目安で糞を片付ける。
なんといっても暗がりなので、きれいに糞を拾えたのか、自信がないけれども、
見当で済ませてしまう。
もしかしたら、ひと固まりぐらい残っていたかもしれない。
明け方、辺りが白んで、運動部の中学生が登校するときに踏むかもしれない。
人迷惑な話だが、許してもらいたい。
少し後ろめたい。

歩き始めると、道の先に黒い影が見える。
人が座っているようだ。
こんな夜中に、どんな用があって道端に座るのだろうか、と、いぶかしむが、
時々、早朝に見かける小柄なお婆さんを思い出す。
そのお婆さんは、いつも、どこかに向かって急いでいる。
白髪のおかっぱ頭。
前髪を額で分け、パッチンと音のする髪留めで止めているお婆さんの
足元は、小学生のような上履きである。
そして、手にはヒラヒラと千円札を一枚持っている。
目は、ずっと前を見ていて、焦点が定まらない。
普通の様子ではないが、駆け寄って声を掛けるのも
なんだか気が引ける上に、大体なんといって声を掛けたものか。
思案しているうちに、通りかかった近所の小母さんが
「おばあちゃん、大丈夫? ウチの人は?」と
声を掛けてくれたので、安心した。
お婆さんにはお婆さんの理由があるのだろう。

今日は誰も通りかからない。
知らない人だが、あの近所の小母さんは既に布団の中だろう。
朝が早いのだから。
今日は私が声を掛けねばならない。

しかし。
足を止めて考える。
ここから、あの座っている角までの距離はかなりある。
それなのに、あのお婆さんの姿は、なぜあんなに大きいのか。
ここから測っても、私の身長はゆうにある。
きちんと正座しているというのに、何故、あのように大きく見えるのだろうか。
遠近法がまるで狂っている。

怖いもの知らずの犬がぐんぐんと進み、私も曳かれて近づいて行く。
近づいても、新月の暗闇。
お婆さんのパッチン留めも上履きもさっぱり見えてこないから息苦しい。
さらに近づくが、どうしたことか真っ黒な正座姿のままである。
犬は興味を持ったか、スピードを上げる。
黒い正座姿に、私は叫び声を上げそうになったが
すんでのところで声を飲み込んでげっぷが出た。
正座姿は、黒い色をした車の座席シートであった。
こんなところに車の座席を捨てるな。
犬の糞よりも人迷惑な話だ。
と思ったものである。

其の七十二
十分にご注意ください

其の七十一
一本木

其の七十
ダイヤと法灯

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