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第110稿 感慨の無い「里帰り」
計らず、十三歳まで育った町へ戻った。戻ったという表現はやや語弊がある。戻ったと言うより、「行ってきた」である。
檀家さんの、ご不幸でお窺いした。早く着いたことも有り待ち時間を利用して、思い巡らし随分と歩いた。小学校・中学校・公園・神社・商店街等々は 元の場所に建物は変わっていたが残っていた。家々は面影の極一面はあるものの殆どが見覚えの無い景色である。それもそのはず45年ぶりである。全く感慨も 無い、他所の里になっていた。狭い路地の場所は変わりない。が、人の通れない建物の隙間になっていた。銭湯は四件の内、三件残っていた。屋号も店構えもな んとなく記憶にある景色で有ったことは不思議と嬉しかった。
思い出話
小学校の頃、どこどこで「葬式」してる。と、ハナタレ小僧はランドセル玄関に置きっ放しにして公園に集まり「お葬式」の家の前を行ったり来たり。 住んでいた地区だけであるのかそれは知らない。誰彼かまわず家の前を過ぎゆく人に隣組の人であろう、祖供養を配っていた。断る人も居なかったように覚えて いる。祖供養と言っても「大阪名物・粟おこし」一枚。子どものこと、何遍も何遍も家の前を行ったり来たり。その都度、オッサンは怒りもせず叱りもせず「お 前等、何遍目や」と言いながら「粟おこしを」くれた。ポケットから溢れるほど持って帰ると親は「ぎょうさんもろてきて」と言うぐらいであった。ただ、食べ た記憶が無い。食べていたのは「親」と言う事になる。
暑い では無い 熱い
総ての道は、アスファルトかコンクリートで覆われている。写真をご覧あれ42度を示している。今住んでいる場所とは異次元の温度。木陰は無く、高速高架橋の陰しかない。葬儀全般終わって、田舎の寺へ帰る道は幾分か何時もより遠いように感じた。
大門 合掌
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