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第90稿 針の穴

 先日お寺の奥さん方の研修会が終わった。和歌山には同宗派の寺院は167ヶ寺有る。が、住職の居ない寺院は100を超す。色々な意味でも、過疎と言うことにも言い換えられる。

 年に一度研修会があり、和歌山県は7組に分けた組織となっている。今年は、当番に当たっていた。お寺の奥さんを示す言葉は宗派によって色々。「坊守(ボウモリ)さん」「大黒(ダイコク)さん」等がよく知られている。臨済宗では「寺庭(じてい)さん」と呼んでいる。故に「寺庭婦人研修会」と称している。が、ご時世「婦人」と言うのが問題があるとのレジメ意見を頂いた。お寺のおばちゃんから出てきた意見では無いそうな。

 そこで「婦人」について。
 大正デモクラシーの時代は「意識の高い成人女性」を言った。また、フェミニズム論者からは「婦」の字は「女」に「帚」であり、女性差別だとお目々をつり上げたかどうかは知らないが、漢字の意味も知らないで糾弾するのは如何なものか。本来、「婦」の字の「帚(そう)」」は今日の掃除道具の「箒(ほうき)」とは意味が違う。「廟」中国における先祖の霊を祀る祭壇を掃き清める道具。を表している。確かに、掃除道具の類であるが意味内容の違う言語や漢字を混同するのは問題である。女偏に帚「婦」は元々「成人女性」を示す漢字である。

 大らかに民主主義を唱え、儒教的束縛から解き放されていく女性解放運動を取り巻く過程の中で、其れまで抑圧されてきた女性の地位向上を「婦人」と言う表現を旗頭に今日に至るまで社会の中で間違いなく浸透させてきたはずであった。
 しかしながら言葉狩りをする人たちに詰め寄られ、何一つ調べ考えようとせず日和見的に頷き「婦人という表現は差別的な意味合いを持つ」と洗脳されるオッサンの多いことには嘆かわしい。
 なぜ「婦人」と言う表現が女性に対する差別的表現というのか、私には理解が出来無い。今日の社会で色々な場面で「女性」と表現するのが定着しているだけならば、「婦人」と言う表現は「奥床しい女性」と訳すれば良いでは無いか。なるほど、奥床しく無い方に「婦人」というのは甚だ失礼な皮肉、侮蔑した差別表現に成るのかもしれない。
 さしずめ、鰥夫(やもめ)の私の場合新漢字を作るなら「男」に「帚」である、1日一度は箒を持っている。。。 糾弾を受けそうなので終わり。

 本題、研修会開催に当たり、事前に摺り合わせをした時の話。

 どこから老眼の話になったのであろうか、お裁縫時に老化を身につまされ実感するという話である。家内の世逃げ以降もそれ以前からも「針と糸」はお菓子の空き缶に収まってる。30年ほど使い込んであちこちへこんではいるがまだまだ現役である。衣や着物、子どものボタン付けズボンの裾上げその他色々、5年ほど前までは難なく針の穴に糸を通せた。最近は中々糸が通らない。一度で通るとそれだけでアホみたいに嬉しくなるのは私だけでは無かった。そんな会話の中、向かいの和尚さん曰く「近眼やから、よく見えますよ」ご婦人曰く「次から、頼むで」 どうも、ヤンゴトナキ人種の会話内容では無い。元気な女性の方々の会話である。
 来年は「寺庭女性研修会」と名称を変更するか。近未来「寺庭オバチャン(ヤマノカミ)研修会」にバージョンアップされるかも・・・

 蛇足、
「婦人画報」「女性自身」どんなお方を対象に制作販売されているのだろうか。間違っても「オバチャンパワー」と言う様な雑誌が刊行され無い事を「男帚(おっさん)」は唯々祈るばかりである。
大門 合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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