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第80稿「七夕」と「お盆」-家族の集まり-

 既にお祭りの終わった地域もあると思いますが、七夕と言えば七月七日。と言う事になる。ただし旧暦では本年は八月十三日と言う事になる。ちょうど、お盆の最中。
 「七夕」を「たなばた」と読むには少し無理が有る。今日の様なお祭りになったのは江戸時代。しかしながら、その歴史は以外と古い。
 古く「棚機女(たなばたつめ)」と言う女性達がいた。「棚造り」の建物で布を織るのであるが、高い場所に居住する事になる。中国から伝承の「星伝説」と混ざり合い今日の七夕に成立した。

 七夕は、五節句の一つである。季節の変わり目を意味する。「しちせき」と読むが、先の話から「たなばた」と読み書き表す。
 さて、七月七日つまり朔の日から七日目、上弦と言う事になる。新暦ではなかなか「上弦の月」にはならない。 旧暦つまり太陰太陽歴・・・書き出すと長くなるので省略。
 日本中で七夕のお祭りは実に多い。新暦と旧暦の二本立て。全国七夕サミットまで有る。今年は、川崎市宮前区で第十八回目が開催されたニュースを見た。
 毎年思うが、新暦七月七日頃は梅雨時分で有るから、グレゴリオ歴で行うのは、弊害が多い。

 お盆は関西八月、七月関東と言われるぐらい時期が異なる。同じ宗門であっても地域差に倣い法要は行われている。是も、旧暦と新暦の併用になる。
 お盆の行事は、中国から七世紀の頃には日本に伝わっていた。推古天皇十四年(606)「この年より寺毎に、四月八日と七月十五日に設斎せしめき」と日本書紀に、記載されている。

 四月八日は降誕会、七月十五日は施餓鬼会を始めたと言うことである。
 日本でのお施餓鬼は多くは「七世父母の供養」の意識が強い。盂蘭盆会(施餓鬼)は、目蓮尊者の話から発生した法要。
 概略で説明すると、目連尊者の母親が地獄で苦しんでいる。その理由は、自分の子供ばかり慈しみ他人の子供には何一つ愛情を持たなかったという話です。その母親を助けるため、無縁に対しても供養(設斎つまり食事)を施す。と言う説話から生まれた法要です。
 確かに、七世父母の供養となりますと随分と施餓鬼の趣旨が異なっております。精霊棚には有縁(ご先祖・七世父母)と共に無縁をまつりますが、無縁に関しては無縁のように思われます。

 日本中どの地域のお盆も祖霊を迎え一定の期間共に暮らし、送る。と言う事に関してはその差異はありません。
 七夕を、一年に一度しか会えない家族をテーマとすると、お盆も同じく一年に数日しか一緒に過ごす事の出来ない家族となります。先ほどの「棚機女」に触れました。色々な説明には川の畔で、神に供える布を織る女性とするのが総ての様です。

 確かに、川の畔ですから湿気対策で床の高い建物となります。違う見方をしますと、逃げだすことの出来ない建物です。梯子が無ければ下りることの出来ない作りを「棚造り」と言います。閉じ込められ、下界と遮断された空間。亦、日本神話の世界では黄泉の世界と生者の境を表す「川」今日の私達にはよく解らない時代の背景を考えますと、当時の何らか特定の女性達の見えない境遇が垣間見えて参ります。その様な事を想像すると、中国星伝説「牽牛、織女」に重なり混ざり我々の知る今日のお話になるのではないでしょうか。

 現在では徒弟制度も丁稚奉公、女中奉公と言う様な社会は日本では特殊な世界を除いては見受けません。
 江戸落語に「藪入り」と言うお話があります。一年に二度だけ家に帰ることが出来る。親子の繋がりをテーマにしています。棚機女達には家に帰る事が出来る藪入りが有ったのかどうかは知りえません。私どもが忘れ経験していない事を誰しもが当たり前の様に過ごしてきた先人には、自身過ごした境遇と交錯する体験が背景に有った中で、日本独自に創作を加え、種々様々な話が混ざった行事として私どもが知る七夕のお祭りに発達したのでしょう。

 さて、忙しいですね、新暦と旧暦を並べて予定を考えると。
 旧暦では、毎年七月七日から十五日の八日間に七夕とお盆。つまり、新暦八月十三日は旧暦の七月七日で「迎え盆」慌ただしく二日後「送り盆」

新旧混ぜるとどうも、ややこしい。
ダイモン 合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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